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LIPHLICHのニューアルバム『フルコースは逆さから』が10月2日に発売されました。
最近の彼らの勢いが本当に凄くて、このCDも下記YOUTUBEの試聴を聴いただけで眩暈がするほどで
この発売を、本当に楽しみにしていたのですが、いざ現物を買って来て聴いてみると
内心で上がりまくっていた期待のハードルを軽く壊すほどに、「やっばい」一枚で
文字通り、気が遠くなりました。

と言ってみても、何も伝わらないのは百も承知なので、恒例の
すごいなーと思ったところや曲の輪郭をざっくり紹介してみようと思います。



冒頭の『マズロウマンション』『古代に捧ぐ』のライブ映像は
アルバム『フルコースは逆さから』A/B2種類あるうちのAタイプ、DVD付きに収録されている映像です。
BタイプはCDのみ。『古代に捧ぐ』はBタイプには収録されていませんのでご注意ください。


1. 街へ出よう(Instrumental)

導入部にあたるインストゥルメンタル。
短音で重ねられるアコーディオンとかちゃかちゃと食器の鳴る音
包丁と俎板で食材をリズミカルに刻む音、人々のざわめき、ベルの音。
音像で描かれる情景は、人々の集うレストランの風景であるように思います。

2. 飽聴のデリカテッセン

1曲目で描かれるレストランの風景から、急展開して突入する痛快すぎる怒涛のリード曲。
何て軽快で小気味良くて皮肉めいて洒脱なんだろうと、一聴した時から驚いた記憶があります。
掲題の「飽聴のデリカテッセン」は、音楽で言うところの「飽食」と重ねられているとのこと。
「飽聴のデリカテッセン 飽調のレトロエッセンス 予期できる君の範疇 もはや千切りにして」
サビ部分のこのフレーズの『飽聴』と『飽調』は字が違うのですね。今気付きました。
何て人の事を食った歌だろう、と思う半面で、微塵も不快に思わないのは、その意図をひっくるめて
こんな洒脱でチャーミングで強烈な曲に仕上げてしまう彼らの自信と音楽の説得力によるものだと思います。

確かに「晩御飯に何が食べたい?」という話になった時に
「何でもいいけど美味しいもの」と答えると怒られるのに
音楽には具体的な期待をせずに「良い音楽が聴きたい」と探す努力もせずに怠惰な姿勢をとっても
それが一般的なことになってるなー、とか思いました。そんなことはいいのです。
聴きどころは、どこだろう。この洒脱な軽妙さを支えているのは
全パートがすっごい頑張っているということは分かるのですが、何分私に音楽を解説する語彙が乏しく
上手く「ここ!」と言えないのがもどかしいので、ちょっと気になった人は、いちいち格好いいので
ギターもベースもドラムも、重ねられている凝った挿入音のひとつひとつにも焦点を当てて
聴くということを試してみても楽しい歌だと思います。私はその前に楽しくなって踊ってしまいますが!

途中で差し挟まれて、ふと耳に引っかかるフレーズについてちょっと加筆。
「求めるヤミー」はYUMMY=「美味!」
「パッとミミクリー」はmimic(真似る)の名詞形mimicryということだそうです。
これは解説聞かなきゃ分からなかったので、書いとかなきゃと。

3. ヘンピッグ

烈しく連ねられるドラムに牽引されて突入するのは、縦に強く速い強烈な一曲。
これは最早、敢えて恐れずに言ってしまえば、『メタル曲』に分類されると思います。
むしろ、彼らなりの『メタル』を正面から衒わずやろうという意図すら感じます。
「楽器が上手じゃなきゃできない音楽ジャンルがメタル」だという線引きがありますが
それに足る実力を十分に彼らが既に帯びているということを、力強く示す意図もあるのかもしれません。

曲も演奏の熟練度も十分に、紛うことなく『メタル』だと言ってしまうに足る一曲なのですが
『メタル』と言うには、なんてアンニュイで繊細なボーカルが乗せられた可憐な一曲なのだろうと
逆に驚いてしまう心持ちがします。違和感ではなく、この曲に乗ることで際立つ久我さんの表現力。
LIPHLICH曲の中で、初めて挿入音の同期を用いず、演奏音だけで構成されたというこの曲は
ギターも、ベースも、ドラムも、輪郭を見失わせることなく色濃い音で調和して怒涛の一曲を描きます。
ライブではヘドバン曲なのですが、私はヘドバンせずに彼らの指元を注視したい欲求に駆られます。
『ヘンピッグ』の意味するところは『雌豚』らしく、怒りをぶつけて汚い部分を見せるような曲という話がありましたが
私はこの歌、この曲が愛おしくてたまりません。大好きです。
同期がないだけで、これだけ音の輪郭がはっきりするの。と驚いた曲でもあります。

雌豚を意味する『ヘンピッグ』を題に掲げ、爆走とでもいうような疾走感を帯びて前へ前へ進む曲で
「Follow me Hen Pig 餌はミニキャロット」と雌豚たちを率いる男性は己を「吾輩」と呼びます。
何ていう優雅で無敵なアジテーター。餌にミニキャロットを選ぶセンスも可愛らしい。
そして聴いていて抜群に楽しいの。夢中で疾走する集団に紛れたみたいな無敵な感じを覚えます。

上で「メタル」って言いまくりましたが、これってパンクなんですか?
私、パンクを通ってないので自信持って言えないというか、メタルだと感じたのですけど
「これはパンクだよ、メタルじゃないよ」って思った方、教えてください。すいません。

☆★追記 20131102
新井さんに確認したところ「メタルだね」とのことでした。良かった!!合ってた!!

4. 慰めにBET

正統派ジャズに殴り込みをかけるような一曲。これまた正面から行きましたね。本当に驚きました。
よくあるジャズ風や、ジャズアレンジではなく、これは、正統派なジャズです。

水が滴るような湿度のある軽快なピアノの音が鮮やかに踊り、めちゃくちゃ効いている傍らで
軽く刻まれ続ける抑制のあるシンバルを叩く音が愛おしくて好きでなりません。
スタスタと叩かれるドラムに絡むように低く歌い続けるベースのゆらゆらとした陰影と
差し挟まれる色気のある流し目のようなギターの表情。
そしてピアノソロから続くギターソロの存在感。シーン転換の息を飲むような緊張感も凄い。

歌詞の話をすると、「慰めにBET」の後に続くのは「愛しいヘビ心で」というので驚きました。
この歌の主役は「一瞬のスポットライトを求めて脇役でもステージへ上がるバーレスクの女優」です。
『Lost Icon's Price』の『夢見る星屑』や『ミズルミナス』で描かれた女優性に通じるものを感じました。

「かなわないと認めず 白旗は上げず足上げ 右へ左へ今日も殿方焦らす真夜中の蜜」
「主役はあの子でもいいから、嗚呼、今夜も赴く 雨のステージ」
「報酬は1秒のスポット それだけでいいから I BET ME. I BET ME」

この抜粋部分だけでも、この歌が抱く脇役女優の抱く儚い希望と戦いの息遣いが見えるようです。
凄いなあ久我さん。何がどこから憑依して、こんな詞が書けるのか、全く分かりません。

5. VESSEL-Album Ver.-

完売した1stシングル『6degree's separation』のリード曲『VESSEL』が
アレンジを大幅に変えて収録されました。
「宛がう愛が 蜂の巣のような君という容れ物から 流れていくのを防ぐにはこの手じゃ足りない」
「時の流れとともに1つ1つ増えていった洞穴 埋めるのは時じゃなく 理想の中の不純物かもしれない」
「宛がう愛に たまに混じった嘘と欲と不安が少し詰まって ほらまた1つふさがったね」
という部分で、無力で一面的な愛情を歌う凄くシビアな歌だという印象があったのですが
先日の大阪のライブの終盤で、この歌が歌われる前に
「人には穴が開いているから、どんなに満ちても思いや記憶が流れ出してしまうものだけれど
 流れ出してしまうものだからこそ、溢れないで済むのだし、また希望を持つことが出来る」と
いう逆説的な言葉が差し挟まれて、目が醒めるような思いがしました。
この歌を書いた時点では、きっと上記のポジティブな意味ではなく、文字通りのネガティブな無力感を
軸にしていたのではないかなと思うのですが、その日に聴いたこの曲は、この言葉の通りに
人が穴だらけであることを責めるのではなく、だからこそ注げば内側が澱まずに居られるのだという
強くポジティブな一曲として聴くことが出来ました。それって凄いことだと思うのです。
この曲、ライブではサビで皆こぶしを振り上げるのですが、私、聴くのが精いっぱいで毎回できません。
固まって、演奏を見守るので精いっぱい。
メロディーラインを背後から支え歌い続けるベースと、嘆きを帯びて倫理を刻むギターの描線。
そして決定的なところで叩き込まれるドラムの絶対性にそれぞれ括目する価値があると思います。
以前の曲紹介の中では「バンドとして系譜的なアプローチ(言い換えればスタンダード)」と書きましたが
今回、この音源に収められた形を聴く限り、勿論良い意味で輪郭は残しつつも
前回滲んでいたスタンダードな王道さは色を潜め、「一般的なバンドらしい」曲ではなく
「LIPHLICHらしい」曲に仕上がっていると感じました。
スタンダードな構成を崩していないと言ったって、他のバンドはこれ真似できないと思う。

あと、試聴動画の中にもあるフレーズなのですが
「言葉は君にとってシガーの先につけた火で ほんの少し時がたてば消えて後は灰になるだけだから」
という一文は、私、生きている限り忘れないように持ち歩こうと思う特別な一文です。
この言葉を憶えている限り、どんなに理不尽な状況でも、相手を責めずに居られると思う。

6. 大計画

ドゥーーーーンとした重さと暗さのある映画のような一曲。
「マッドサイエンティスト」という解説を聞いて、「ああ!」と納得しました。
都会の夜闇の裏通りの地下で暮らす男が、狂った愛で恋人の脳を水槽に取り出して愛する話かなと思いました。
この曲に関しては、その夜闇の中で人知れず行われる狂気の愛の着想の情景を、音楽の力を集結して
描いているように感じました。
ぶっちゃけた話をすると、個人的にはエヴァの綾波レイが沢山水槽で泳いでいるシーンと
1927年の無声映画『メトロポリス』の労働者の街の地下に住む科学者ロトワングが
人々に慕われる少女マリアを攫ってアンドロイドとすり替えて監禁するシーンと
大越孝太郎の漫画を諸々と思い出しました。

という印象でライブで見て、この曲の描く赤く甘い幻想に息を飲みました。
今、ライブで一番美しい情景が見られる歌かもしれない。
この主人公の科学者が憑依した久我さんが赤いライトの下で歌う
「おはよう 気分はどうだい 生憎 珈琲はないよ」という愛情に満ちたフレーズが美しくやっばいです。
見てみたいと思った人、見れるうちに見たほうがいいです。

7. マズロウマンション

マズロウマンションです。知ってる歌だと油断して聴いていたら足元を掬われました。
先日小説書いてる間、何百回と聴いていたのですが、未だに飽きていないことに我ながら驚きます。

8. 月を食べたらおやすみよ-Album Ver.-

完売した2ndシングル『ミズルミナス』と対になる幻の一日限定販売された曲です。
『ミズルミナス』とこの曲『月を食べたらおやすみよ』は別ブログの方で記事を書いたので
内容に関してはそっちをご参照ください。
ギターソロに入る一音目のスカーンと抜ける音の強さと透明感に吹きました。(ごめんなさい)
すっごい美しいです。ギターの引く旋律の線を月明かりの下で手探りで手繰っている感触。
重ねられているアコースティックギターのさざめきと、水面でしじまを描くように存在するベース、
鼓動を代行し続けるドラムの端正さも注視するに値すると思います。
歌の面で言えば、久我さんの声に切実さと説得力が増して、物語が一層の必然性を帯びた気がします。

「どうせこの後また会えるのだし 先に眠ってやすらかに君よ」
「怖がることも 今となっては何もないんだよ」
「いただきましょう 愛した全てを いただきましょう 永遠のスープを」
「君を食べたらおやすみ すぐに行くよ」

この自分勝手な男性の一面的な愛が、歌の説得力如何で、清らかな愛情にしか聴こえないのが凄い。
事実、この曲は、男性側からルミナス嬢へ捧ぐ澄んだ愛情を描く、名バラードという位置にあります。
内容と印象の乖離を、全く違和感なく表現力と説得力という曲と歌の力で捻じ伏せている曲だと思います。

9. Fiddle-De-Dee

一転して軽妙な打ち込み曲が幕を開けます。
「英語にしか聞こえないのに、歌詞カードを見ると日本語にしか聴こえなくなる久我語」と噂の一曲です。
そんなことないだろう、と思って歌詞カードを開いて聴いて、吹きました。凄いな!!笑
初聴の際は、笑いが止まらなくなって、ひとしきり笑いました。
こんな曲も詞も書いちゃうところが、やっばいです。

因みに試聴の冒頭部分は「上品なプレイはもう飽き過ぎた 無礼なくらい辱めていくまで行こう」です。
「何歌ってるのか聞き取れない」という一般的にネガティブな反応を逆転させた発想に脱帽。

試聴で聴いていた時点では輪郭を掴みきれておらず、そこまでピンと来ていなかったのですが
CDで一曲を通して聴き、ライブで見た時に、炸裂する痛快さに脳味噌はじける位狂喜しました。
渉さんの曲は、言葉に置き換えられない体内からの感情的な狂喜や高揚があるように思います。
ライブで見る時の注目点は、久我さんの不思議なダンスでしょうか。膝から崩れるかと思った。
素晴らしいキラーチューンです。と纏めておきます。
この歌詞を知りたくてCDを買っちゃうのもありだと思いますよ(^v^)

fiddle-de-deeの意味は英語の間投詞の「バカバカしい!」って言葉なのですよね。
私、これぐぐるまで知らなかったのですけど、久我さんの用いる英語は
「ちゃんと英語を勉強した人の英語」というところで、安心感があって個人的にとても好きです。
「It's a good day to do」とかも高校時代に例文で覚えたもん。懐かしい。

10. ミズルミナス-Album Ver.-

内容としては、上記『月を食べたらおやすみよ』のところで貼った記事の通り。
音に関して、ひとつひとつの音の輪郭が際立ったように思います。
「以前のは日本人ぽかったルミナスさんが、イタリア人みたいになった」というコメントの通り
背景にある音が、リズムだけではなく湿度を帯びてラテンの夕暮れのような情景を描いています。
これも折々で挿入されるギターの音の存在感と、ソロの密度の高さがすっばらしいです。
乾いた音で叩かれるドラムの示唆や、映画のシーンのように展開していく牽引力が凄いと思います。
前回の録音に比べ、全体的に一つ一つの音の輪郭が丸くなったような気がします。
上で「ラテンの夕暮れ」と形容しましたが、今回のルミナスさんは歌の切実さが増したことで
危うさと焦りのような覚悟が見える気がしました。
夕暮れを過ぎて夜が来てしまったら、このルミナスさんは恋人を殺す気なんじゃないかしら。
歌詞も曲も前回と変わらず、ただ挿入される音のアレンジが変わっただけで、この印象の違いに
改めて驚きました。

11. ジョン&ジェーン・ドゥ
イントロからベースがくっそ格好いいです。私この曲一番好きかもしれません。
試聴動画に無いのが残念。
私、普段、ライブは上手で見るのですが、この曲を弾くベースの進藤さんの指先を見たい一心で
こないだの大阪で初めて下手に行きましたもの。
情景としては、曲からも詞からも、ハードボイルドなアメリカの昔の犯罪映画の匂いがします。
五番街に住むジョンとジェーンの夫妻(兄妹かもしれない)は、二人きりで暮らしており
空のない街の下で共犯関係であるように思います。
「彼がジャムをぶちまけ」「彼女が秘め事にする」って殺人の暗喩にしか思えないです。
そしてこの二人は、二人揃っていないと生きられないんだなということが、ひしひしと感じられます。
こんな映画みたいな情景を、説得力を持って、一曲に仕立て上げるのは、曲と演奏の力に他なりません。
凄いなあ。表現力の意味でLIPHLICHが凄いって言う時に、私は選ぶのこの曲かもしれません。

12. MANIC PIXIE
マズロウマンションに続き、「知ってる歌だー」と油断して聴いたら、度胆を抜かれました。
この曲は3月の発売以来、ライブの中で最も強烈に会場内を真っ白の忘我に塗り込める力を持って
ライブの毎にその強さを強烈に増してきたのですが
その時に見る、理性をかなぐり捨てる瞬間の忘我を、高揚感を、音の生々しさを増して
ライブ音源でもない録音の中に取り込んできた感触がします。
そんなことが出来るの?!と絶句しました。
この録音を聴いていると、ライブの終盤でヘドバンに埋め尽くされるフロアの情景が目に浮かんで
言葉の通りに鳥肌が立ちました。

曲の内容として「自分の目で見て、信じたものへ迷いなくひた走る」ことの疾走感を軸に持つこの曲が
こんなふうに強さを得た時の、何も怖くないモードの無敵さを帯びた実感は
実際にライブで飲み込まれるか、このCDに収録された録音を聴かなければ伝わらないと思います。
すっごい仕事をしましたね、と喝采を送りたくなった一曲です。
現在のLIPHLICHの強さを示せる一曲。変なとこで変な音を入れて遊ぶ余裕すらも見てとれます。

13. 主人の楽園
試聴動画の4:20あたりから。
「きれいなものも きたないものも どちらだって もう見たくはない」という一人きりの人が
「必要とし、必要とされる、そんな日がいつか来るだろうか」という思いを抱いている曲です。
綺麗な曲ではあるけれど、正直に言って、CDで聴いた限りでは、それほど感動はしませんでした。

その分、ライブで見た時の、あまりに強く清浄な情景に驚き、息を飲みました。
一つの曲をやる時に、4人が4人、全員がそれぞれに神がかる瞬間を
その、息を飲む神々しさのままで一曲が演奏されきってしまうところを、私は見ました。
それって、すごいことだと思うのです。それがもし事実だと実感したとしたら、凄いでしょう?
凄かったんです。そして、その奇跡みたいな演奏が更に強さを増していくことは火を見るより確かで。
それを実感として得た時に、心臓持って行かれるかと思いました。

詞を読む限り、内容には孤独と諦念しか描かれていないというのに
曲の持つ必然性を帯びた途端に清らかな祈りが中心に現れて
崇高さを切実に信じる人の強さを見ることが出来るのが、一番凄いなあと思った点かもしれません。



今回のCDに関して、全体を通して感じたことは、とんでもなく「やっばい一枚」であるということ。
語彙が見失われてしまうほど、言ってしまえば「百年残る価値がある」と言っていい一枚です。

あともう一つ感じたのは、最近のマズロウマンションに代表される物語面の強い曲に対して
今回のCDに収録された曲は概して、言葉は最低限の抽象に近い緩さを残していて
音の面で、勝負をかけに来ている感じがしました。
音の輪郭の際立ち具合が、ひとつひとつやばい鮮やかさです。
言葉が意味を持ちすぎると、音が背景を描くためのものとして二義的になってしまう部分を引いて
音そのものの存在を中心に据えて、意味を持たせるために、言葉を引かせた印象があります。
だから久我さん自らが小説を書く必要が出てきたのかなと、このCDを聴いてみて初めて納得しました。

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こっちがDVD付のタイプA。4200円。
8月2日のリキッドルームワンマンのライブDVDががっつり付いています。
それでこの値段は安いと思うの。おすすめはこちら。


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こっちがCD単品のタイプB。2625円。
13曲入りのニューリリースのアルバムとして、明らかに安いと思います。
CD収録曲はAと同じ。





もしこの記事を見て、ちょっとでも気になるところのあった人は(それが懐疑的な気持ちでも)
現在彼らはこのCDを引っ提げて初のワンマンツアー中なので、行ってみるといいです。
SURREAL FOOL FULL COURSE TOUR
10月18日福岡DRUM SON
10月20日岡山IMAGE
11月8日新宿LOFT
というより、この週末、名古屋・大阪と見てきたのですが、本当に本当に良かったので
残りのワンマンツアー日程に間に合うように記事書かなきゃ、と思って帰宅当日の今日
書いているという状況なのです。今。

誰かの参考になれたらいいなあ。本当に個人的な感想で恐縮ですが。
このバンドを、こんな小さな会場で見られるのは、今だけだと思いますよ。


☆★追記20131101
YOUTUBEに上がってたので引用しまくってみました。
後半三曲あがってなかったので、聴きたい人は買うといいんです。
というか、見て貰ったら私が書いてる「やばい」のが十分伝わると思うのですけど
こんなのただで聴いちゃだめです。貼っておいて言うなって感じですけど。
[PR]
by pinngercyee | 2013-10-08 00:31 | 音楽


LIPHLICHの新譜『マズロウマンション』が出ました。
マズローの欲求段階説を題材にした曲を作ってるという話をしていたのが四月、
五月のライブで新曲のタイトルが『マズロウマンション』だと発表になって
六月頭に一部だけの試聴動画が上がって、(必死に歌詞を聴きとって世界を推測してみるも全く見えず)
六月の下旬にライブで初めてお披露目されて、(私は行き逃した勢い余って名古屋まで見に行きました)
そしてあれよあれよといううちに、ついに先日リリースされて、やっと全景を見ることが出来て
歌詞を読んで、今まで必死に試聴動画を見ていただけでは見えていなかった部分の情報量の多さに
本当に仰け反りました。

何これ、収録された三曲が表題『マズロウマンション』の中での一連のお話になっている、ということは聞いていたにしても
この世界の深さと情報量は、下手な本の一冊や映画の一本など楽に凌駕していると思います。

歌詞を抜粋して紹介しようにも、抜粋しない場所が見つからないから全文載せなきゃいけなくなる。
これは、歌詞の形を借りた純度の高い小説です。
無駄な言葉が一切ないから、核になる必要最小限の言葉を用いて、音楽を背景に纏いながら
ある意味、小説や映画がやることよりも色濃く匂い立ちながら『マズロウマンション』という作品が
既存の概念に一切阿ることなく凛と自立しているということになると思います。

読むまで全景の見えなかった歌詞の情報量が多いと書きましたが、その内容の伝わりやすさにも括目。
一度読んだら情景が浮かんで、二度目に聴く時は歌詞を全て聴き取れるようになります。
(歌詞を読むまで正しい詞が把握できなかったのは、ひとえに私の耳が悪いのだと反省しました)
これだけの情報量を抱えながらも、下手な解説文って書くだけ野暮なくらい
誰が読んでも理解が十分に及ぶ言葉で書かれていることも度胆を抜かれます。



なので、これはCDを手に入れた人には必要のない解説だと思って読んで下さい。
正しい歌詞を読む前の私、試聴を聴いただけで、世界の全景が見えなくてもどかしく思っていた自分に宛てて
全景を見ることが出来た今の私から、気付いたことを書き留めておこうと思います。



上記で少し触れましたが、掲題の『マズロウマンション』は
「自己実現理論(じこじつげんりろん)とは、アメリカ合衆国の心理学者・アブラハム・マズローが『人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである』と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。また、これは、『マズローの欲求段階説』とも称される。」《Wikipediaより引用》
を踏まえ、それを五階建ての洋館に準えた世界のことを指しています。

1.生理的欲求(Physiological needs)
2.安全の欲求(Safety needs)
3.所属と愛の欲求(Social needs / Love and belonging)
4.承認(尊重)の欲求(Esteem)
5.自己実現の欲求(Self-actualization)《Wikipediaより引用》


に従い、それぞれの階にはそれぞれの欲求を満たすことが出来ず飢えている人々が暮らしています。
内容に関しては、Wikipediaを全文コピペしなきゃいけないくなるので、直接ざっくりお願いします。

首がない灰色の管理人が話す
『ようこそこの世の楽園 マズロウマンションへ。
4階が黄色の貴方様のお部屋、まずはここでの決まりを覚えて頂きましょう』

マズロウマンションへ入居する『私』が案内されたのは「黄色の四階」でした。

ここで管理人から示される「ここでの決まり」は
1.上の住人に逆らうな
2.隣人とはつかず離れず
3.下の住人に関わるな
4.よき日々を

というものですが、曲の中折々で、これ以外にも「ここでの決まり」らしき文言は登場します。
1.上の飛び降りを受け止めろ
2.隣には花束を贈れ
3.下の眼差しを忘れるな
4.よき日々を

冒頭の入居時に知るこれらに続き、歌詞が二番に移り変わる場所で差し挟まれるものは
マズロウマンションへ入居した後に初めて知る詳細なものになっています。
1.物を投げても自分は落ちるな
2.エレベータは降りる時だけ使え
3.拾う時1階の目は見るな
4.煙に巻け

一聴しただけではピンとこないこれらの示唆は、後に続く部分で意味が明かされます。

マズロウの全ての人に当てはまる欲求段階説を下敷きにしているこの洋館は
この世界で現実を生きる全ての人が入居者とも言える建物だということになります。
それぞれの欲求段階で住む場所が決まるこの建物の中、上記の「ここでの決まり」は
私たちが生きる現実の中での暗黙の決まりごとになっているのかもしれません。

3階の女の子 ウサギを投げ捨てた この高さじゃ致命傷にならないこと知ってる
5階の芸術家 ピアノを投げ捨てた 下敷きになったマッチ売りのこと気付かない


欲望まみれマズロウマンション 階級制5階建て ヒュルルルルル
ここじゃ叶えた欲の分 下で誰かが終わる

この部分の端的な例として明示された(愛を求める)女の子と(自己実現を求める)芸術家は
それぞれに自分の身を投げるのではなく、意識的か無意識的にかは分かりませんが
「決まり」に従って自分の身代わりを窓の外へ放り投げます。

欲望まみれマズロウマンション 階級制5階建て ヒュルルルルル
ここじゃ忘れた欲の分 上で誰かが笑う


『そうそう、言い忘れていたことがございました』
『もし退去なさる際は、必ず私めにお申し付けください。管理人室は6階にございます。』


欲望まみれマズロウマンション 階級制5階建て ヒュルルルルル
もしも出て行きたいのなら 管理人に会いに行け
欲望まみれマズロウマンション 階級制5階建て ヒュルルルルル
もしも出て行けないのなら 人間を止めること




もう追記すべきことは何もありません。
薄暗く愉快に進行する音楽を背景に存在するマズロウマンションの全景が、掲題曲で描かれています。

このCDに含まれる二曲目『Room 612』では「首がない灰色の管理人」のことが
三曲目『愛は死なずに3度落ちる』では、「三階の女の子に放り投げられたウサギ」のことが
描かれています。


収録されている2曲目『Room 612』は上記試聴動画の1:14あたりから。

人間辞めたリリーが住んでる部屋 エレベータが行くのは5階までで
1.2.3.4.5 where is 6th floor?
リリーに遭えるのは最初だけで 部屋へ招かれても誰も行けない
1.2.3.4.5 where is 6th floor?


1曲目『マズロウマンション』で差し挟まれる6階に住む管理人ことリリーは
「退去なさる際は必ず私めにお申し付けください、管理人室は6階にございます」と言いますが
いざ、リリーに会いに行こうとしても、それがままならないことであることが冒頭で示されます。

上記Wikipedia内でも示されているように、5階建の欲求の段階から逸脱することが
すなわち6段階目、6階に住むこと=人間であることを辞めた管理人リリーであることも、
そして、欲求を逸脱することが常人にはほぼ叶わないものであるということも
常人が6階を訪れようとしても見つからないということに関係あるのかしらとか思いました。
下りの時にしか使えないというエレベータ(昇るのは自力でないと昇れない)も
この件を指し示す一つのヒントなのかもしれません。

餌はどこ 家はどこ 人はどこ ここは

欲が満ちたら 灰色リリーをお迎えに
傷が癒えたら 首なしリリーをお迎えに

どこにいるの どこにいるの リリー どこにあるの どこにあるの リリー
どこにいるの どこにいるの リリー どこにあるの どこにあるの Room612


このマズロウマンション(=人の暮らす社会の縮図)を退去するということは
退去する人が人間であることを止めることであることは、1曲目の最後で明示されますが
リリーの元を訪れる人間が、人間を辞める(=死ぬ)覚悟があるのかどうかは示されません。
「欲が満ちたら」「傷が癒えたら」人々はこのマズロウマンションを退去しようと思うのかもしれませんが
その時に、彼らは自身がリリーに申し付けることが可能だったとして、彼女はどのような役割を果たすのでしょう?

話しが少しずれますが、欲求段階(フロア)が高くなるに従い、飛び降りた時に死ぬ確率が高くなり
5階の芸術家は、1階の畜生どもよりも飛び降りによる自死を選択しやすい状況にあるということ
そしてそれに関して「物を投げても自分は落ちるな」という規則があることで
リリーは入居者の一方的な退去を禁じているということに気付きます。

そうなると、退去(=人間を辞める=死を選ぶ)段階で、リリーの果たす役割は
平たく言うと、死神のようなものなのかな、と思いました。灰色で首がないっていうし。
だから「リリーに遭う」のは「会う」ではなく「遭う」と書いているんだなとか。

神様になれなかったリリーの事 悪いのは人間だけど気にしない
人間に戻れない  リリーの事 悪いのは神様だけど気にしない
友達を助けても 神様を信じても 在る意味を知ってしまった彼女の事は


人間と神様の中間にちょうど位置し、「欲が満ちたら」「傷が癒えたら」お迎えに来て
「愛を知ったら」「夢を知ったら」帰る(=迎えに行くのを止める=生きさせる)リリーは
やはり退去(=死)を司る存在であるものであるように思います。

それにしても1曲目『マズロウマンション』の中で話す管理人が女性だとは思わなかったし
何度聞いても聴き取れない歌詞が「リリー」と人名を歌っているとは夢にも思いませんでした。
「どこにあるの どこにあるの リリー」も必死に聴き取った段階では
「Coming down Coming down With me」だとてっきり思い込んでいました。(100%の余談)

「どこにあるの」と歌っていると知ってからは、「どこにあるの」としか聴こえなくなるのが
個人的に、すごい衝撃でした。



上記試聴動画2:25あたりから3曲目『愛は死なずに3度落ちる』です。

ベランダで眠る兎 さみしいのちくもり あの人の言いつけであの子の身代わりになる
時々おかしくなる あの子の目がまるで この私の目みたいに赤く染まった時

代わりにその致命傷 引き受けるのが私
あの子は知らないけど それでいい

貴方の
涙もらう兎 痛み抱いて代わり落ちる
涙もらう兎 加速し再生する世界

もう2度と泣かないでと願う私の目 青くなる世界はほら元通り


ざっと一番の歌詞を引用してしまいましたが、もうこれでこの歌の輪郭への言及は十分でしょう。
1曲目『マズロウマンション』内で、兎を窓の外へ放り投げる3階の女の子は
「決まり」に従い、自分が身投げをする代わりに兎を投げているのだということ。
そしてその兎は「あの人の言いつけであの子の身代わりになる」と言っているということ。

あの人って誰の事かしら、と考えた時に頭に浮かぶのは死を司る管理人リリーですが
もしかすると、リリーを6階に縛り付け、神様にも人間にもなれない存在にした『神様』が
兎の主人なのかもしれないなあ、と少し思いました。
世界を再生させることのできる力を持つのは神様だろうし、とここまで考えて思ったのですが
兎が3階から放り投げられても世界は損なわれませんよね。損なわれるのは兎の命でしかなく。
放り投げた女の子は無傷だし、そもそもそのために身代わりになっているのだから
再生する世界というものは、兎にとっての(兎の見ている)世界なのかしら、と思いました。
だから落とされる度に兎の目が青くなり(赤さが損なわれる=失明、ということかなと)
そして両目を失った世界で兎は「これでおしまい でも元通り」と見てもいない世界を信じる
自分の居なくなった世界が変わらないことを知っているということ、なのかなあと思ったりしました。
いや、単に女の子が泣き止んで、本来の碧眼に戻って、兎が安心するだけなのかもしれない。

今、根本的なことに気付いたのですけど、「あの子の目が赤くなる」というのは
「もう2度と泣かないで」にかかって、あの子が泣いてヒステリーを起こしているということを
示しているんだなとか。すいません、読んだら分かることを今気付いて。。

それにしても上記の「さみしいのちくもり」と2番の「じれったいのちくもり」っていう
兎視点の表記が可愛いのなんのって、これ、素晴らしく秀逸だと思います。
誰も思いついたことのないフレーズだし、そういうものに焦がれて世の詩人は言葉を弄ぶんだなとか。
弄んでいるだけで、この段階の、誰も思いついたことのない一節を見出すことのできる詩人って
詩人を自称する人のほとんどが達することのできない一節だと思います。久我さん凄い。

ベランダで弱る兎 じれったいのちくもり あの子の好きなピアノが聴こえなくなった

本当に欲しい物 知っているんだよ私
すぐ隣にあるけど 言えないから


兎がベランダで弱りながら何をじれったいと思っているのかというと
3階の女の子がヒステリックに泣いて自分を放り投げる時に
彼女が本当に欲しいものを知っているけれど、言うことが出来ないということ。
愛を希求する段階の3階の女の子は、ピアノを投げ捨てる5階の芸術家に恋をしているのでしょう。
彼が5階からピアノを投げ捨てて(その下でマッチ売りが犠牲になり)ピアノの音が聴こえなくなって
彼の悲しみ・絶望に連動して、女の子はヒステリーを起こして兎を放り投げるという図式ですが
兎の知っている「本当に欲しい物知っているんだよ私」と無言の兎の言う愛は
女の子の傍らの兎の中に宿っていることが示されている、というところで
この曲のタイトルが『愛は死なずに3度落ちる』となっていることに気付きました。納得。

それにしてもです。この「本当に欲しい物 知っているんだよ私」の歌い方の含む物が
悲しくて愛おしくて、聴いていてこのフレーズを耳にするたび、息が止まる思いがします。

これで3度引き受けてしまった私の目 悲しいけどこれでおしまい でも元通り

可哀想な兎の最後の言葉にあたる上記の後、兎は3回目の落下を経たことで死んでしまうのでしょう。
その後、女の子はどうなるのかなあ、と思いました。
「この高さじゃ致命傷にならないこと知ってる」彼女は、兎が死んだことで嘆くでしょうか。
それとも、彼女自身の落下を招くでしょうか。
それとも、それを阻止するために、新しい兎が彼女の元へ送られるのでしょうか。
愛というものが、取り換え可能かどうか、ということを考えてみることも暗喩されているかも
しれないなあ、とか。勘ぐりすぎでしょうか。

それにしても兎が健気で可哀想で愛しい。
そして背景に流れる曲は軽快で、悲しさを滲ませない甘酸っぱい匂いをさせる一曲であること。
この曲を書いたことだけでも、すごいなあと感嘆に値する物だと思うのですが(作曲は久我さん進藤さん共同名義)
そこにこんな兎の詞が乗っかるなんて、ちょっとした奇跡にも思えます。
そこに共感して欲しくて、ちょっとこれ頑張って書きました。



上記に貼ってる試聴では一部分しか聴くことが出来ないので、気になった方は在庫のある今のうちに
音源CD現物を入手することをお勧めします。
発売日当日にメーカー在庫完売という話で狼狽えましたが、今日聞いたところによると
お店に来週以降再入荷予定があるとのことで、再販がかかったことに胸を撫で下ろしたところです。
でもこの在庫もいつまであるのかは全く分からないので、お早めにどうぞ。超お薦めです。

Aタイプは『マズロウマンション』と『Room612』の二曲入りにライブDVDがついたもの。
Bタイプは上記二曲に兎の歌『愛は死なずに3度落ちる』が加わったCDだけのもの。
どちらも素晴らしくお薦めです。
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by pinngercyee | 2013-07-28 06:18 | 音楽
目眩めく怒涛の大阪行脚の直前に、私は、言葉にならないくらい、美しいものを、見たのです。
多くの人に会ったりだとか、旅行の緊張や、睡眠不足や、興奮や、そんな色んな記憶の強烈な上塗りを経て
言葉に置き換えられないまま、途切れ途切れになってしまいつつも、その記憶について
私は、文章を書かなくてはいけないと、強く感じています。

あの日、私が見たもの。
言葉にならないくらい。無意識に目を奪われてしまうくらい。
そして暗闇の中に舞い踊る断片が、一晩中、私の瞼の裏を去らないくらい。
私が見たものを、文章に、形に、記憶に、そして誰かに伝えられる状態に、してしまわなくちゃいけないと
じゃないと、私、何のために、文章を書くことを志したのか分からないって思うほど。
そして、私自身、きっと十年、二十年の時間を経た後に、必ず思い出すだろう記憶である半面で
その時、その場にいた自分に嫉妬を覚え、その場にいた自分に誇りを感じるだろう一夜でした。

シンプルな意味での『美しいもの』は、率直に言って、そのあたりに転がっています。
見つけることも、共感を得ることも、難しいことではありません。
しかし、目を見張るほどの、尋常じゃない『美しいもの』を見た時にこそ
人はそれを他者に伝えなければいけないという、使命感に駆られるのだと思います。
誰も見たことのないもの。誰も実感したことのない、信じられないほどの絶対的な美しいもの。
それを、人に伝えることができる形に、それを描くことができる武器を私が持っているとするなら
それを、間違いのない、見た通りの美しさを損なわないように、記憶してしまえる道具を使えるなら
他者が、どれほどの不信を抱いていたとしても、私はそれを「正しく伝える」努力を惜しむつもりはありません。

実際の何分の一になってしまっていたとしても
「素晴らしいものが存在した」ということを実感を込めて人に伝わる証にできるということは
私自身が、「素晴らしいものを見ることができた」という経験に対しての
感謝を示す唯一の、最も誠実な手段であるように思うのです。




前置きが長くなりました。
先述の大阪行脚日記に記載した通り、あの日、私は高速バスの発車を一時間半後に控えた時間まで
目黒でLIPHLICHのライブを見ていたのです。

これが、通常の、例えば他のバンドとのイベントライブであったとしたならば
私は恐らく、自分にとっての大きすぎる課題『大阪文学フリマ』を優先して、目を瞑っていたと思います。
しかし、この日。
最初は「大阪での文学フリマ前夜だから仕方ない」と理性によって諦めようと線引いていたこのライブを
どうしても見ておきたい気持ちが、日が迫るほどに強くなってきて
私は、同行のゆきめちゃんに小声で相談を持ちかけることになったのでした。

「【LIPHLICH 5th ONE MAN LIVE】
2013年4月13日(土) 目黒鹿鳴館
marder suitcase presents
CONCEPTUAL ONE MAN 『時計仕掛けの晩餐.第2夜』
目黒鹿鳴館をオールドムービーシアターに…。
特設されたスクリーンに映写機の光で作り上げられるステージ。
パブリックドメインとなった映画やアニメーション等々をバックに奏でられる楽
曲達が時にコミカルに、時にシリアスに、時にホラーに、時に美しく彩られます。」

そう題された告知は、もう数ヶ月前からなされていたものでした。
前回の仮面必須ライブに続く、Conceptual one man第2夜は、映画をテーマにしたものであること。
そうとは知っていたものの、実際に何がどうなって、映画をテーマにライブをするというのか
全く想像が付いていないというのが、実際のところでした。
きっと、私以外の来場者も、あの試みを正しく予測できていた人はいないのではないかと思います。
大阪文学フリマの日が迫り、私は自身の作家としての新刊の入稿やチラシの作製に追われている中で
「映画をテーマにしたこの日限りの」という煽り文句が額のあたりで渦を巻くのを感じていたのでした。



諦めるつもりでいたので、前売りのチケットは買っていませんでした。
並んだ数百人の入場列の最後尾に並び、当日券を買って
後ろのほうでいいから、ステージ上が全て見渡せる場所を見つけて、せめて展開を見届けようと思い
新宿駅のロッカーに荷物を詰めて、身軽になった私は目黒へ向かいました。
小さな鞄には、財布と煙草と携帯と、あと、いつもは持ち歩かない眼鏡を入れていました。



第1幕 マッド・シネマ・パラダイス

開演予定時刻を15分過ぎて、静かに古いシャンソンが流れ、客席のざわめきが波のようにたゆたう中で
突如、会場を薄明るく照らしていた照明が落ちた不意の瞬間を、息が止まる思いで迎えました。
幕が下ろされたままのステージに、それまで映し出されていたこの日の日付と掲題が失われ
まるで本当の映画の上映が始まるように、アナウンスを伴った黒い背景に
白い歯を覗かせた赤い唇の映像が映し出されます。

幕は、以前閉じられたまま。

その奥では、楽器を持つ気配と、それを示す楽曲の導入部が宣誓されるように
演奏を始めるのが感じられました。

一曲目は『リフリッチがやってくる』

乾いた白黒の色調で映し出されている映像は、クラシック映画と呼ばれる年代の映画のものでした。
石造りの上空の空いたコロセウムに、馬車が次々と入場して行きます。
「もしかして、第一部って、このまま幕を開けずに投影映像だけを見せてやるつもりか?」と
会場全体に薄い不安が立ち込めた直後のタイミングで、幕は高らかに開かれました。

「サーカスがやってくる」
言葉裏腹に、ようやく壇上に示された彼らの存在は、サーカスの言葉が帯びる華やかさの対極のような
徹底したシックさを帯びて、投影の画像を受けとめながら、微動だにせず演奏を続けていました。
白黒映画の投影の下、彼らの身に纏う服も、全員が細身の黒いスーツで、髪型や化粧に至るまで
余計な装飾のない、それどころか、表情や動作すら禁じられたように慎み封じる彼らの姿は
まるで、映画がかつて音を帯びていなかった頃、活動弁士を率いて上映していた当時、
映像の傍らに控えて演奏を続けていた伴奏楽団員の人たちのように見えました。

『僕らの使い捨て音楽』
続いて演奏されたものは、まさかの激しさを帯びたシニカルな選曲で、思わず自分の耳を疑いました。
「星屑の木箱 中身は何でしょう? 価値も分からない奴が値札付ける」
「逆らう者には花束をあげよう、従う者には紙とペンをあげよう」
軽快に波打つ音楽を映画の画面を背景に浴びながら、やはり微動だにしない楽器の三人に遠慮をするように
しかしじわりと音楽に飲まれるように、波打つ音楽の力を体内で転がすように
観客たちが音楽に従い始めるのが感じられました。

『映画』に焦点を当てたこの催しの中で、私はこの曲を聴くことができたことが嬉しく思われていました。
以前、久我さんに質問した折に否定されたことなので、違うとのことだったのですが
やはり、私はこの歌の「逆らう者には花束をあげよう」の一節が、映画の中のイタリアンマフィアの儀礼
(敵に花束を贈り、友好を示しながら笑顔で暗殺するというもの)をどうしても思い出させてしまう
特に映画的な印象のある一曲だからなのです。
そして、この曲の激しさに目を奪われ、それを従えるように壇上で動く久我さんの姿に目を奪われ
この曲の間、投影されていた映像の内容を、どうしても思い出すことができないでいることに気付きました。

今回のこの試みで、何が特筆すべき事柄なのかと言うと
ただ古い映画を投影しながら演奏を行うというだけでなく、楽曲の収束する瞬間に合わせ
映像が収束するよう、完全にタイミングが揃えられているという点が目覚ましいと感じました。
演奏の収束と同時に切り替わり、曲間に投影される画面は
『MOVING TO THE NEW LOCATION』と表示されていました。

リッチー・リッチマンの『映画って本当に素晴らしいですね』
壇上に映し出されたのは、白髪できちんとスーツを着た老齢の紳士でした。
しかし彼は風体に不似合いな、小さな戸棚の隙間に横たわって頬杖をつく体勢をとりながら
優雅な口調で、呆気にとられている観衆へ緩やかに話しかけます。
淀川長治の口調に重ねられているだろうその司会者ぶりに
観客は暗闇の中、ただリッチマン氏の姿を黙って見守るばかりでした。

女性に関する二本の作品、とリッチマン氏の案内に従って演奏されたのは
『メリーが嫌う午後の鐘』
『月を食べたらおやすみよ』の二曲。
メリーに関しては、曲から受けた私的な印象では、もっと幼い少女をイメージしていたのが
投影で映し出されたのは、馬車に乗るドレス姿の美しい女性の姿でした。
風と共に去りぬのスカーレットオハラを演じたビビアンリーを思わせる美しい女性に
楽曲内で、午後の鐘に怯えるメリーの少女のような恐れは、大人になっても胸の中に息づくものなのかもしれないということを、私は映像を見ながら思った憶えがあります。
月を食べたらおやすみよ、は『ミズルミナス』と対になる男性視点でルミナス嬢を見守る歌ですが
この歌が演奏される上に投影されたのは、ルミナス嬢と対極に思える修道女のような清らかな女性でした。
モノトーンの映像の中、白い透けるような頬をして静かに遠くを見る女性は
清らかさを信じながらルミナス嬢へ向けられた男性の視野であるのかもしれないと感じて
大変面白かったです。

それにしても、壇上で楽器を支えるメンバーたちの動かないこと。
飾り気なく整えられた髪型と服装で、笑いもせず表情すら動かさず演奏を続ける彼らの姿は、彼らが本来
とても端正な作りの青年たちであることを、映像の光と影の合間に浮かび上げていたように思います。

リッチー・リッチマンの『女性の想いって本当に色々ありますね』
メリーとルミナス嬢、抱いていたイメージを映像により裏切られたのではなく
彼女たちの中に在る見えなかった側面を照らし出されたという一幕を経て演奏が終わり
緊張の糸が緩むのを感じると、壇上には、再び先ほどのリッチマン氏が登場していました。
観客を煙に巻くかのような氏の語り口調の中で、次の曲として示されたのは『Pink Parade Picture』でした。

『Pink Parade Picture』
急激な転落を思わせる導入部に始まるLIPHLICHの楽曲の中でもコケティッシュな印象の強いこの曲の
上から投影されたのは、セルで書かれた白黒の古いアニメーション作品でした。
あまりにポップでメジャリティな存在(ベティブープ)に、思わず(版権とか大丈夫なのか)と
内心狼狽えてしまいました。
画面に映るのは、歌詞に倣った通りの行列。
見覚えのあるキャラクターが動きだけで観客を見せる力のある往年のアニメーションの技術を思いました。

基本的に投影以外の照明のない暗さの中で立ち尽くし演奏する楽器たちと
その手前で一人、軽やかに映像の光の中で歌い、ゆらゆらと動きながら全体を統べる久我さんの印象が残ります。
あ、あと、すごいなと思ったのが、メンバー誰一人として今、何が後ろに投影されているのか、一回も確認しなかったこと。
曲の間の転換時間や、曲の収束に映像がぴたりと合っていることすらも、一度も振り返って確かめなかったこと。
あれだけ凝った芸当を数百人の観客の前で堂々とやりながら、一度も壇上で不安な態度を見せなかったのが個人的に、すごいなーと思いました。
エンターテイナーというか、プロフェッショナルというか、覚悟というか。

リッチー・リッチマンの『何度でも味わいたいならまたおいで』
場面転換の数秒間をはさみ、リッチマン氏の「最後の登場」となりました。
リッチマン氏の「人生を変えた忘れられない一本です」と示されたのは『淫火』。
LIPHLICH曲の中でも、映画的映像色の強い一曲が選ばれたことに納得を感じつつ
この曲の抱く烈しさを、微動だにせぬ壇上でどのように示して見せるのかということが楽しみに思われました。

何ていうんでしょう、これだけ映像の引用があれば、私も古い映画を見ていないほうではないので
一つくらい、引用元を特定できるんじゃないかなと思っていたのですが
情けないことに一つもできなかったので確かなことは何も言えないのですが。
『淫火』に被せられて投影された映像を見ていて、『肉体の門』だとか『ソドムの市』だとか
そんな言葉が思い出される思いがしたことを覚えています。多分というか違うんだけど。
あ、あとあれも思い出しました。フリッツラングの『メトロポリス』の地下に暮らす労働者の群衆が
崩壊を恐れて逃げ惑う群舞のシーン。
そんな映像を背景に、前面でゆらゆらと動く久我さんの存在感が美しいこと。
マイクをコードで持ち上げて果物に模したかと思うと、横に持ち笛のように模したりという動作が
映像の光の隙間隙間に現れてくるのが、やはり前回も書いたとおり
落語家の用いる憑依的な体現をする優れた役者であるように感じられたことを、憶えています。

【第2幕へ続く】
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by pinngercyee | 2013-04-16 12:00 | 音楽
【第1幕の記事はこちら】

第2幕 時計仕掛けの晩餐

15分の休憩を挟み、再び壇上に現れた彼らは、先ほどまでの静けさを帯びた表情を払拭し
MANIC PIXIEの発売に伴う衣装で、華やかさと激しさを帯びて存在していました。
客席の暗転に背中を押されるように、彼らの登壇を待ちわびた客席が先ほどまでの抑圧をはじき返すように
いつも以上の熱を以って、彼らの登壇を迎えたように思います。

続けざまに演奏されたのは
『フェデリコ9』『夢見る星屑』『嫌いじゃないが好きではない』『It’s good day to anger』。
先ほどまでの静けさと対して、壇上の彼らの動くこと動くこと。
格好つける余地も必要すらもないと言うかのように、全くの衒いのない無邪気な熱を
素直に音楽に叩きつけるように演じられた曲の数々の輝くこと輝くこと。
そしてそれを飲み干すように、自ら全身で滝を浴びに行くように受ける客席全体をうずめるように覆う熱。
音楽に埋もれる空間として、とても、言葉にならないくらいの
結晶めいた素晴らしさがあったように思いました。

冷静さを保って見守ろうと思っていたはずなのに、理性などどこかへ掻き消されてしまうほど。
理性や冷静さなんて、この熱の中、このあまりに輝きに満ちた空間の中
全身を包む音楽と喜びの渦の中では、か細い紐でしかなく
常に手繰り寄せておかないと意識すらも、消し飛んでしまいそうな気がして
私は必死に神経を、耳と視覚に集中させるべく、自分を律しようとしました。
曲の合間合間で、観客の中で共有される振付があるのですが、それに従う余地もありません。
周囲に従い手や足を動かすことに意識を使うことよりも、私はこの場所に満ちた、今しか見ることの
できないものを、必死に見届けようとしていたように思います。
見ては、いたんです。必死に。沢山のことを感じたようにも思います。
その時に見た瞬間的な記憶としての、後になって断片として不意に浮かび上がってくる美しいイメージ。
それは、曲の側面を帯びた情景だったり、逸脱した存在感を示すギターのフレーズだったり
笑いあうメンバーたちの姿だったり、曲に溺れるようにする客席全体の熱だったり。
そしてそれら音楽と、空間全体を一体とする密度と、疾走感。
『フェデリコ9』で客席全体が右手を掲げ、飛び上がる瞬間の連なり。
強烈なうねりを伴う波に全身を飲まれる直前の記憶。
時にギラギラと強く光る艶のあるメロディラインと、
スポットライトの当たるような瞬間に胸を張って全てを担う新井さんのギターソロや
小気味良さを纏い、軽快に音楽を従える久我さんの歌の存在感。
扱いにくそうな太い太いフレットのベースを動物をあやす様に操る渉さんの安定した万能感。
一歩下がった場所で、全ての秩序を絶対性を帯びた説得力で線引き続ける丸山さんのドラム。
それら一つ一つをとっても、視線を釘付けにするのに十分な存在で在り続けながらも
それら全てが互いに作用し続けて、空間は一体となっているということ。
『夢見る星屑』の冒頭部、「馴染めません、この姿、きらきらしてて素敵でしょう」の節を歌いながら
スパンコールの縫いつけられキラキラと輝くジャケットをつまんで見せる、その久我さんの動作一つの説得力。
前回見たライブの折で「流星を模した」と例えた同曲の、低い場所で燻り揺れていたものが高みに登り
一つの光の筋を強く儚く描きながら疾走する様を見ているようなギターソロの存在感と言ったら。
『嫌いじゃないが好きではない』。
この曲のタイトルのシニカルさと相反する渾身の愛嬌を、私は強く愛していると思いました。
引っかけ問題のように素直に曲に従って飛び上がる客席と
突如差し挟まれる空白の悪ふざけにも似た愛に満ちた意地悪と。
そしてそれを、会場の空間全体として愛おしさに満ちている視線の共感と。
愛と信頼に満ちていると言わずして、私はこの空間でのこの曲でのひと時の時間を
何ていい表わせばいいのか、分かりません。
「チクタク」という囁きと、密やかな秒針を模した久我さんの指先に導かれる
『It’s a good day to anger』
正直、見ていることに必死で、記憶もあやふやになりつつありながら
息を止める緊張感で怒涛に飲まれていく全てを見守っていたように思います。
「目障りな五感を捨てたら」ふっと耳の中に残ったこのフレーズの色濃い存在感に
何かの示唆を受けたような気持ちになって立ち竦んだ記憶があります。

怒涛のような激しさを帯びた数曲の後、一転静かな曲調の『雨模様』が始まると
先ほどまでの空間を支配した狂乱にも似た熱は、静かに降り続く雨音に掻き消されてしまったようでした。
雨の日の情景を強く宿したこの曲の輪郭を、私は長いこと掴むことができなくて
以前書いた曲紹介でも敢えて抜かしてしまった曲だったのですが
この日、雨の日の湿度と重さを伴う音で、この曲が演奏されているのを聞き
初めて曲としての輪郭を認知することができたように思いました。

照明が落とされ、真っ暗になった壇上で、真っ白な光のスポットが床に落とされました。
その下で、伴奏のないアカペラで歌われる『ミズルミナス』のメインフレーズ。
熱と激しさと情報過多の渦の中にいた先ほどまでと対比される
シンプルさで壇上中央に示されたルミナス嬢の嘆きは、この日、一番美しい瞬間の一つであったと思います。
(この日、ライブ後に乗った高速バスの消灯後の暗闇の中で、幾度も浮かんできた断片の中
 一番印象が強かったのはこの情景でした。)
普段なら、例えばこれが別のライブを見に来ていたとしたら。
ああ、アカペラね、と軽く聞き流してしまっていたかもしれない場面でのこの説得力。
息を飲んで見守るしか、そして瞬きをするのも、他のことに意識を飛ばすことすらも
罪悪感を伴って勿体ないと思われる、幻のような寸時の間。
暗闇の中で白い光に浮かび上がらせられたのは、ルミナス嬢の存在と、その声そのものだったこと。
言葉や歌詞を超えた場所で、勁く滑らかに遠くへ伸びるその声の質感が
それまで意識したことのない声としての、楽器としての、素材としての美しさを湛えていることを
私はぽかんと口を開けて見守る他ありませんでした。
何かに似てる、と、目の前で消えてしまう前に、この声を記憶してしまいたいという一心で
私はルミナス嬢を見守りながら、暗闇の中に伸びてゆく久我さんの声を
何かに紐付けてしまいたい衝動に駆られていました。
――例えば、そう、真珠色。真珠の少し憂いのある白さ、あの表面のなめらかさと宿った光。
そのイメージは久我さんの声自体へ向けられた印象なのか
あの場所で存在したルミナス嬢の嘆きに対しての印象なのか
いまだに、着地することができていない部分でもあります。
あと、普段、男性の声を『綺麗』と感じることって、そんなにないのですが
この時の久我さんの声は神がかって『綺麗』でした。

伴奏が加わり、LIPHLICH曲の中でも、ジャズ色の強い軽快さの中に、自分を気高く誇りながら
叶わない恋に嘆く美女ルミナス嬢の心情を描いた『Ms. Luminous』の曲の全景が露わになります。
正直に言って、私、この曲はLIPHICH曲の中でも、とりわけ好き、というほどの印象は
ライブを見るまでなかったのです。
普段聴いていて、もっと印象の強い曲がいくつもある中で、この曲を演奏するところを見る度に
端正に情景を描き切る完成された音像が、そしてそれに含まれ、振りまかれる気配や音の一つ一つが
心の準備なく聴いていた観客の一人を有無を言わさず釘付けにする力を持っていたことに
毎度、驚かされるのです。
聴いているだけで、楽しくて楽しくて、体の中で持て余された力が、音楽の揺れに添って
左右に体内を転がり続けている、とでも言ったら伝わるでしょうか。
グルーヴだとか、そんな真ったいらの音楽用語めいた言葉は使いたくありません。
楽しくて勝手に体が揺れてしまって初めて気付く、自分の体内に持て余された力を転がして玩ぶ楽しみ。
この曲に関しては、(こんなことを言うのは、上から目線で本当に憚られるのですが敢えて言うと)
曲、音楽としての、完成度合いがめちゃくちゃ高いのではないかと思います。傑作という意味で。
そして、それを、私は、ライブで目の当たりにしなくては、気付くことができなかったのですけれども。
ライブに足を運ぶ度に、この曲を聴くことが、一つの楽しみになっていることも、強く感じます。

ルミナス嬢の嘆きが軽快な音楽に埋もれて消えてしまったかと思うと
壇上右手に立つギターの新井さん(タッキー)が「どうもー」と人懐こい笑顔で観客に呼びかける時間が訪れました。
それまで息を飲んで壇上を見上げていた会場内の空気が緩むのを感じます。
私は去年新井さんが加入した後のLIPHLICHしか見ていないので、何とも言えないのですが
彼が入ったことで、彼らの帯びる空気は無邪気に明るく強く朗らかになったんではないかなあと
見ていて感じます。
先ほどまで、激しくベースを弾き続けていたはずの渉さんは、演奏を止めた途端に、いつもの平静などこを見ているのか何を考えているのか分からない(彼は梟が好きだというのですが、私は渉さん自身が梟に似ているように思えて仕方がありません)姿を取り戻し、新井さんの問いかけに「ああ」とか「うん」とか「まあね」とか、言葉少なに答えているのが面白かったです。
談笑する二人(主に新井さん)の背後で、先ほどまで中央に立っていた久我さんは、水を飲んで座り込んでいる様子でした。
前半は黙って二人の掛け合いを見ていた久我さんが、珍しく腰を浮かし
「ちょっといい?」と言うように前方に入ってきます。
演奏中の緊張感とはうって変わって、全く気負いのない表情で
「今日の映画の企画の準備、本当に大変だったんですよ。あのリッチーリッチマンの声は僕なんですよ」と告白。
一瞬、会場内が固まったように思いました。
「会得するのに3時間くらいかかって」
そんなこと言われたら、聴きたいし見たいし「聞きたーい!」と考える前に叫んでしまいました。
会場内そこここから上がる「聞きたーい」「やってー」の声に、久我さんは楽しさを抑えきれない様子で壇上をぐるぐる歩きながら
「えー。『……私、リッチー・リッチマンがお送りいたします』」
とまさかのエフェクトなしの地声が響きます。思わずマイクを抱える久我さんを二度見してしまいました。
(まじか。というか、あれだけ作りこんだ演出の内幕を、やった当日のうちにばらしていいのか?!)
私の内心の動揺に関わらず、当日のうちに内幕をばらすことは全く今日の第一部の完成度を損ねるものではないという風で、壇上で心から楽しそうに笑いあう彼らは、第一部のストイックなまでの完成形を作り上げたことと、現在の第二部でのライブを行っていることは、全く以って潔く、別の次元のものであると考えている様子に見えました。
そういえば先ほども「沢山の人に協力してもらって、本当に大変だった」ということを無邪気に話してしたことを思います。
東京の音楽シーンを支える老舗のライブハウスの床に、投影幕をを固定するために釘を打たせてもらう提案に感動したこと、多くのスタッフの人が本気で関わって支えてくれていたことを、この日も、後日のブログでも感謝していたことを重ねて思います。
第一部が完璧に完成でき納得がいったからこそ、第二部で、これだけ無邪気に、これだけ全力で飾り気なく率直に楽しみ、音楽と戯れることができていたのかもしれないとか、そんなことを考えました。
彼らのその潔さと無邪気さに、締め付けられる思いがします。

談笑する彼らの背後、一歩引かれた場所に置かれたドラムセットに位置する丸山さんのソロが始まります。
普段、彼らが曲を演奏している中で、描く世界をサーカスのテント内の出来事に例えると
そのテント自体の屋台骨というのは、明確に時に強く、時に慎ましく、秩序を線引き続けている丸山さんのドラムの音の存在に他ならないかもしれません。揺らがないこと。倫理や秩序といった明快にするべき前提を、丸山さんのドラムは軽やかに、重厚に、楽しそうに、線引いているということを、今更のように実感します。
そこから続いた『グルグル自慰行為』、暗いガーデンで篝火を焚く少年の幻と、目の眩むような強い光と音楽の応酬。
扇動者である「アジテーター」とは誰のことを指すのでしょう。
そして怒涛の勢いが一切緩められないまま、雪崩れ込むように『グロリアバンブー』の淫靡な裏通りの深夜の密室へ。
「ジー ア グローリア ビー ビーッ バンブー オーイエス!」
音源中、コケティッシュな女の子たちの声で歌われるコーラスを客席に求めた後、背骨までもが蛇のように波打つ感触の大きなうねりの渦中、ギラついた光を纏う幻が展開されていきます。
そういえば、私はこの曲を、音源を購入後、アコースティックではなくライブでちゃんと聴くのが初めてで
ずっと聴きたいと思っていた分、この日、聴くことができたことがとても嬉しかったことを覚えています。
そして続くのは、『MANIC PIXIE』。
アコースティックでは数度聴くことができた(これに関しても相当度肝を抜かれました)けど
曲の全体を把握した後に、ライブでちゃんと見渡す様に聴くことができたのは、この曲も初めてです。
前回は「トリッキーだなー、情報量多いなー、展開速いなー、」と傍観するように眺め
途中から溺れるように聴いてしまい、細部に関して全く覚えていないという聴き方しかできなかったこの曲を
把握した上で聴いてみると、想像していた以上に、とても楽しかったことが印象に強いです。
ライブで曲を聴いて、こんなに楽しいことが不自然に思えるくらい。
一聴してトリッキーな難しい曲、として興味を失ってしまわず
曲を把握して、ここでこれほどに楽しむことができている現在に、ここ数カ月の自分を褒めてやりたいくらいの気持ちが湧きました。

否応なく体温の上がる三曲を経て、「次が、本編最後の曲です」と紹介されたのは、『古代に捧ぐ』でした。
その前にあった告知と、このライブの企みの楽しさと大変さと、不安さと、多くのものを巻き込みながら今日を迎えたという話。
「自分たちのやりたいことと、楽しんでもらえることを擦り合わせて形にしてみて、大変なことも多いのですが、不安もある中、今日をこうやって迎えられたこと、多くの人に来て喜んでもらえたことが
泣きそうになるくらい嬉しい」
そう言って頷く彼らは、誰に対してよりも、彼ら自身の倫理に対して、誠実であろうとしているということを強く感じました。

「最後にファンの人のためだけに、書いた曲『古代に捧ぐ』を聴いてください」
そう言って始められた前奏の上には、この日一番に明るい照明が降り注いでいました。
音源で聴きなれている形よりも、この日の演奏は、ドラムの輪郭が強く、白く降り注ぐ照明の色と有機的に柔らかく鳴るギターの音が合わさって、月夜に照らされた無人の岩山の情景を思いました。李白の詩のような清らかな優しさに満ちた情景。
甘く遠い郷愁が一帯を柔らかく染め、恒久に通じる清らかさと凛とした存在を、黙って見守っている月夜のような曲。
以前のライブで『航海の詩』に向けて感じたような、LIPHLICHの姿勢自体を司る標のような曲なのだなと、改めて感じました。

「アンコールで重大発表みたいなやりがちなことは一切ないので、安心して暴れてください。ここからは乱痴気騒ぎだ!」
と壇上に再び現れた久我さんが叫んだ後、アンコールの一曲目は『My Name Was』。
見ているだけで、降り注いでくる音を必死で受けとめてなぞっているだけで精一杯で、もう記憶がないです。
時折で、ゆるやかさの差し挟まれる瞬間に我に返りそうになり、でもその隙を与えず、再開される怒涛の波。
本当に、気持が良かったです。雑念や思考の入る隙間が一切ないの。
集中が途切れる余地のない純粋な楽しみ。
50メートル全力で走って、周囲の音が聞こえなくなる時の感覚と近いものを感じました。

そして続いたこの日二度目の『グロリアバンブー』。
先ほどよりも執拗に「最初の女の子のコーラス、言わないと今日返さないから!」と観客を煽りつつ
冒頭のコーラスを客席を含みながら幾度も繰り返した後に、入った本編の、先ほどより更に増した絢爛さ。
もう訳が分からなくなりながら、ひたすら楽しいとだけ感じつつ、目の前の視界が星を塗したように
キラキラして見えました。
そして、最後の曲、この日二度目の『MANIC PIXIE』。
半分気が遠くなりながら、壇上と空間全体を同じ色で包む熱と喧騒を、視点の定まらないままで幾度か眺めた時に、居る人たち一人残らずが、一切の雑念の入らない「今、この場所、この時」というものだけに溺れているように見えました。
何て美しい景色だろう、ということを感じたのは、この時が一番強かったと思います。
何が美しいって、あの場の隅々までが、音楽と愛と熱を帯びた一色に、理性を失い溺れていたこと。
そんな情景って、生きている中ででも、なかなか見ることはかなわないものではないかしら、と後になって思いました。



終演後、客席に照明が付き、私は22時に新宿駅でゆきめちゃんと待ち合わせている現実を思い出しました。
「え、今って何時?!」
と青くなって時刻を見ると、21時を幾分過ぎた時刻で胸を撫で下ろした覚えが強烈にあります。
もし、あの時、時刻が22時を既に回っていたとしても、私は、ゆきめちゃんに申し訳ない気持ちを
抱きながらも、この公演を、途中で切り上げるという選択はなかったように思いました。

この日、素晴らしい公演を見たこと。
それはきっと、私にとって、ずっと消えない記憶になると思います。
高校生の私が、自分が見られなかったコンサートのビデオを見て、あの会場に居る全ての人に嫉妬と羨望を
感じ、あの場所に、どんなに悪い席でも同席できた人は、どんな人であろうと私よりも幸せな人だと
強く感じた記憶を思います。
私が上記に書いたこの日の記憶に関して、大げさな部分は一つもありません。
私は、自分が見たもの、感じたことを、そのまま誠実に言葉に移し替えただけのことです。
この文章を読んで、半信半疑ながら、少しでもあの場所へ同席してみたかったという気持ちを感じた人には
これからも、想像を絶するだろう密度で空間を染めていくだろうLIPHLICHを見守っていくことを
お薦めします。

そう、言えることは、私自身がLIPHLICHを全面的に信頼しているということなんだろうな、と
ここまで書いて思いました。
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by pinngercyee | 2013-04-16 11:00 | 音楽
LIPHLICHの新譜が出ました。


私、このCDが出るのを本当に楽しみにしていて。
単純に一人のファンとして彼らを応援する意味で、というのも勿論あるのですが
それよりも、この『MANIC PIXIE』という曲の全容が見えなくて。
それを確かめたい気持ちの方が強かったかもしれません。

このCDを手に取って歌詞を読み、初めて腑に落ちたというか気付けた部分に関して
紐解きながら、書いてみたいと思います。



冒頭部で、馬車を思わせる足音が緩やかに近付きます。
それらの行進を統べる笛の音が響き、ドラムロールが添えられ
昔の白黒映画のようにメインフレーズが差し挟まれます。
"just see the given meanings" "everybody's singing yesterday"

舞台の背景は、19世紀のイギリス・ロンドンかもしれないと思いました。
CD盤下に引用されたコナンドイルの言葉が引用されていることも関係しているかもしれません。
確かにホームズとワトソンが謎解きに奔走した、霧雨煙る薄暗い19世紀のロンドンの街の
交通手段は馬車だったはずです。

そこから激しく鞭を打たれ、坂を駆け下りるようにして加速していく馬車は
退屈な沈黙に馳せ参じた「どこかしらへ連れて行ってくれる夢の馬車」でした。
「ドグラでマグラな感性が代金(チケット)」「夢の先へ行きたくてのめり込んだ」
『ドグラマグラ』は(今更説明するのも憚られますが)日本推理小説三大奇書の一つである
夢野久作の小説のタイトルです。
ですがこの場合は、この小説を指すというよりも
『ドグラマグラ』原義となった『堂廻、目眩』という形容を指すと考えたほうが
相応しいかもしれません。

MANIC PIXIE(=躁病の妖精)と重ねられる主人公を乗せた馬車は生き急ぐように
自分をときめかせる(心から「良いと思える」)何かを貪欲に求めて
「Let's RUSH Let's RUSH」と次の街へと加速を続けます。
「あれも嫌だし、これも嫌なの、わがままっしぐら」
「何にも良いと思えないから こちらが良いと思いたいから」

「途中見た流行りの喧騒はきっと馴染めないと気付いてしまった すぐ移動」
「乱痴気騒ぎ屋と安売りの踊り子 『結構です』 振り払って次の街」

「とてもじゃないが全てを認める度量など持ち合わせていないから」
「吐いた毒で咳き込んだ時も、弱さを認め、懲りず又言う『やっぱり嫌だ』と」

「夜道を照らす街灯はずっと曲がりもせず先も見せずにどこまでも続く」

こうやって歌詞に準えて聞くと、この歌が謎解きをするまでもなく、明快に
一つのテーマを冠していることを知ることが出来ます。
無粋を承知で、言葉に置き換えてしまうと、『MANIC PIXIE(躁病の妖精)』は
世の中の物差しに従わず、自分にとっての素敵なものを自分の目で探し出すということへ貪欲に
生き急ぐ一つの生きる姿である(そしてそれは誰にでも当て嵌めることのできる生き方である)と
いうことなのかしら、と思います。



ここからは、音楽面に関して感じたこと。
ライブ会場で、この曲を初めて聞いた時には、めくるめく展開を息を飲んで見送るままで
ただひたすら「すごく凝って作りこまれたトリッキーな曲」だという印象を持ちました。
今回、やっと音源として初めて全体を把握し、音に集中して聴いてみて
やはり「凝った構成のトリッキーな曲」という印象は正しかったんだな、と思いました。

目をつむって聴いていると
からくり屋敷の中に目隠しをされて放り込まれ、手探りで謎解きをしている気分がします。
密度が高くて洒落が効いている傍らで、音で描かれる世界が密封されていると感じます。
そして、暗闇の中で手を伸ばし、触れるもののひとつひとつが楽器の完成された音の個体で
それが目眩く速さで流れ去っていくのを指先で触れている感触が、本当に楽しいと思いました。

RUSHという言葉に相応しく、叩き込まれるように刻まれる音はいくつ重ねられているのでしょう。
全く隙間がありません。
怒涛の展開の中、小さな隙間が空いたと思うとその場所には新しい音がふいっと差し挟まれています。
小さな隙間は偶然できたものではなく、効果的に音を差し挟むために意図的に作られたものだということ。
この音楽に含まれる膨大な情報量の音は何一つに至るまで、総て意識下に統率されて
存在理由を含んだ上で従えられているということが感じられます。

以前からのLIPHLICHの音楽は、音楽として一つ一つの音を際立てるというよりも
音を用いて幻の完成形を構築していくのに重点を置いたものに近かったと思うのですが
このMANIC PIXIEに関しては、幻を隙間なく構築するのと同じ重さで
一つ一つの音を最大限に効果的に際立てようとしている意図が感じられました。
幻としての輪郭線を踏み越えることすら、怖れていないんじゃないかと思わせるくらいに。
一瞬ごとに目まぐるしく立ち替わる主役のように、正面に立つ楽器が入れ替わります。
時に統率を取り、時に叩きつけるように展開する局面それぞれに徹底されているのは
PVのラインダンスのように、完璧主義とも思えるほどの統率された意識だと思います。

その上で、際立つ音。
間奏を導く流麗なピアノ。幾度も水面で繰り返される激しいギターのフレーズ。
差し挟まれる馬車の足音。
叩きつけられるように、また時に遠くから響き、また時にすぐ近くで響くドラムの刻む秩序。
それを支えるようにうねりながら掬い取るベースの倫理。
一つの音像を描いたかと思うと一瞬で軽快に解けて、こちらを煙に巻くような。

何度聴いても、本当に飽きないです。面白い。



続いて二曲目。『グロリアバンブー』いきます。
マニックピクシーで頑張りすぎたので、こちらはさらっと。すいません。

何かを齧り、咀嚼する音で幕を開ける『グロリアバンブー』は
ギラギラした光を纏いながら軽快に艶めかしく展開されていきます。
マニックピクシーと違う意味での、トリッキーさを感じる、気がする。。

さらにトリッキーで艶めかしく危ういんだけど、芯に一つ秩序だったうねりがあって
それが全くブレない、と思いました。
装飾的な音がどれ程にトリッキーでゴージャスでも、芯に秩序があれば音楽として
めちゃめちゃ素直に体に浸透していくものなのだなあ、と感じました。

音像としてのイメージは、都会の裏通り地下にあるクラブで催される夜毎の狂乱みたいな感じ。
原色の光が眩しく入り乱れて、酒とドラッグでぼやけた頭で半裸の女の子を眺めたり
耳内を染める音楽に踊り狂ったりする夜中の気持ち。朝になったら魔法が解ける場所の幻。
そんな場所のことを、思い描きました。これは、私の勝手なイメージですが。

ギターとベースが効果的に配されていて、格好いいことが特筆。



三曲目『古代に捧ぐ』は趣が変わり静かで、とても美しくシンフォニックな曲でした。
シンフォニックに深遠に響きながらも、やっぱり密度が高いと感じました。
一つ一つの音の射程距離を全て正確に測って、消えた瞬間に別の音で絡め取り続けてる気がします。

音像としては、後光の差した揺らがない存在、みたいなものがイメージされました。
でも歌詞を見ると、「どうすれば楽になれるかな」と不安に耐えながら惑いを抱え
一切の虚飾を排して、必死に前を向く人間が描かれています。
「この讃歌はただ目の前にいる君に いつまでもただ寄り添っているだけ」

「人は いつも全てをくれる いつも全てを奪う」
「愛情と憎しみと成功と過ちと強さと怖さと優越と劣等と」
「安心と焦りと答えと迷いと助けと非常と笑顔と泣き顔と」

間奏に差し挟まれるギターの音はとても柔らかく、滴に濡れた植物の葉のように有機的でした。

この三曲目に関しては、これだけ大きいテーマに正面から向き合って
それに相応しい質の大きさで作品にすることの力量を強く感じました。



とてもざっくりとした個人的な感想になってしまいましたが
誰かがLIPHLICHの音楽に手を伸ばす切っ掛けになれれば嬉しいです。

想像以上に長くなってしまいましたが、読んで下さってありがとうございました!
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by pinngercyee | 2013-03-31 00:02 | 音楽
すんごい楽しかったです。
この日は、仮面を付けなきゃ入場できないライブだったので、狐面でした。
(もちろん一人です。)



この日のライブの内容の感想とかレポートとか、書きたいのですけど
夢中で見過ぎて、というか見ている間
理性や言葉が戻って来る我に返る瞬間が2回くらいしかなくて
(普段は、というか日常では私の頭の中って、言葉で全部置き換えて記憶しているのですけど)
すみません、言葉にならない断片的なイメージしか記憶にないです。

普段は、お芝居とかライブとか映画とか、見ている最中でも頭の中で言葉をいじくっていて
「こんなこと考えた」っていうのが、その日の感想として包括されたり記憶になったりするのですが
この日は、頭の中真っ白すぎて、言葉をいじくる暇なんて無かったです。
あと、見ている途中に、一回も疲れを感じなかった。
大好きな人を見に行っている時にでも(満足したから早く終わんないかな)と思ってしまう瞬間て
正直あるのですけど(失礼な話ながら、ライブに行く人ある程度共感してくれると思う)
LIPHLICHに関して、まだ3回しかライブ見てないですけど、それが一度もないのが
個人的に凄いことだと思います。

アンコールも終わり、客電が付いて、自分の居た場所が薄汚くて狭いライブハウスだと気付いた時
夢が覚めたことに「まじで? うそでしょ?」って思ったもの。
終演後、幻が消えたことを認めたくなくて、帰る前に現実を受け入れるために
息を整える時間が、一時間必要だったもの。

素晴らしい時間を有難うございました。
これだけ我を忘れて、美しいものを見せてもらえる時間が時々与えられるのなら
普段の生活がベリーハードでも、私、前を向いて暮らせると思いました。
合掌。



set list
第1部

淫火
KNOCK BLACK DOG JOKE
僕らの使い捨て音楽
メリーが嫌う午後の鐘
マディソン郡の橋の上で
猫目の伯爵
Pink Parade Picture
航海の詩


第2部
It's a good day to anger
嫌いじゃないが好きではない
My Name Was
MANIC PIXIE (新曲)
グロリアバンブー(新曲)
タッキー&グロリアン渉タイム
ミズルミナス
月を食べたらおやすみよ
グルグル自慰行為
夢見る星屑
フェデリコ9
古代に捧ぐ(新曲)

en
My Name Was


セトリ出たので早速コピペ。
この曲順を見て、ようやく、頭の中が少しずつ整理されてきたかもしれないです。
一部は仮面必須、二部から素顔解禁でした。
印象に残った瞬間としていくつか憶えているところを憶えているうちに。

仮面を付けているので、あまり激しくは動けない前半でも
薄暗く閉じきられた狭い箱の中で、空気を震わせて倫理を司るように
揺らず律されたドラムとベースの音は
あの箱の中に居た全員の心臓の脈拍を代行しているように思えました。

開演して、脈拍に従うように夢中で数曲を見送った後、
猫目の伯爵の導入部に、暗闇の中ナレーションが入って
猫目の伯爵がウェンディに恋をする物語が外側から描き出されます。
(あ、そういうことだったんだ)と歌詞を読んで曲を聴くだけでは気付けなかった部分を
意識した後に始まったこの歌の中で、ボーカルの久我さんが猫目の伯爵を演じていることに
この日初めて気付いたように思います。
それまで、久我さんの役割は語り部に近いものだと感じていたのですけど
あれですね。イタコのように、憑依的に登場人物を演じているんだなと、思いました。
猫目の伯爵~Pink Parade Pictureに続く中で、
紛れもなく久我さんはウェンディを見送る猫目の伯爵だったと記憶しています。
(演者が役を自らに落として来るところって、何かに似ているなと思って
 あ、落語とか、そういうのかもしれないと思いました。)

そして前回のワンマンでは最後の最後に演奏された航海の詩が一部最後に。
「孤独でも、自由に、生きていってください」というような(細部に自信がない)
言葉が添えられて演奏された一曲で涙腺が緩んだのを覚えています。
仮面を付けながら、その下で唇を噛んだ記憶。



一部を支配した暗闇の中の悪魔のような声が立ち去った後で
仮面を外しての二部が始まりました。

頭を振れるようになった客席は開始数曲から鬱憤を晴らすように髪を振り乱します。
(私は基本的に頭を振らないので、その様を見渡すばかりでしたが)
理性を飛ばして、その空間をすごい密度で支配する音楽を躊躇なく飲み干すように
体中の中に染み込ませるように音楽を聴く数曲に続き
演奏された3月に発売される新曲二曲は烈しさを保ちながら凄くトリッキーな印象が残りました。
理性が保てない状況で、一回しか聴いてない歌について無責任なことは書けませんが
言葉を失うくらい格好良かったのは確かです。

ギターの新井さん(タッキー)と、ベースの(強烈にグラマラスな新衣装の)渉さんの
暫しの談笑を経て、演奏されたのはミズルミナスと月を食べたらおやすみよの二曲。

ミズルミナス、個人的にこの日一番だったかもしれません。客席が比較的静かなのが不思議でした。
上手く言い表せない音楽的な語彙の不足が歯痒いですが、ルミナス嬢の憑依した久我さんに
輪郭が際立つギターの導きと、足早で目まぐるしい緩急さしはさまれる変調と、
それら全ての世界を基盤として支える曲編成の巧みさと世界を律し続けるドラムとベース、
ジャズのように体を揺らす波の満ち引きにも似た音楽の力をはっきりと感じたことを憶えています。
月を食べたらお休みよ、は私、音源持ってないので、あまり聴きこむこと出来ていないのですが
ミズルミナスに対して、男性視点からの歌とのこと。音源が欲しいです。物語の全体が知りたい。

暗いガーデンでかがり火焚いて踊る少年の幻を、烈しさの中に目のくらむ光の中で見た後に
演奏された夢見る星屑も、素晴らしかったです。
他の曲では導入や輪郭をなぞり世界を支える部分の多い新井さんのギターが前に出て
物語の展開を担うソロを流星を模して歌うように弾くところを見ることが出来ます。

そして続いた力強く危うくグラマラスなフェデリコ9では
さすが作曲者と思わせられる渉さんのベースが吹奏楽とともに全面で
世界を支え、導いているのが分かります。
ステージを一瞬ごとに染める強烈な光の下のキャバレーの狂乱のような。
歌だけではなく、ひとつひとつの楽器が次々に主演を目まぐるしく立ち替わる一曲。

二部最後は、3月発売の新曲の残り一曲の古代に捧ぐ。
ごめんなさい。素晴らしかったと言葉を失ったことしか、自信を持って書けません。
早く曲の全体を知りたいと思いました。歌詞も言葉として読みたいです。

長い暗闇の中のアンコールの時間。
隣にいる見ず知らずの女の子が声を枯らすほどに叫び続けているのが印象的でした。
客席の右半分と左半分が交互に声を上げていたのが、前方の導きで一つの大きな波に収斂して
彼らの登場を待っていたのを、彼らは知っていたのかしらと思います。

アンコールとして演奏されたのは、再度のMy Name Was。
世界を一つずつ叩いて確かめているような、激しさの中の確認のように思えました。
私にとっての、この日の総ての時間の締めくくりがこの歌であって良かったと感じました。
穏やかさの差し挟まれる怒涛の前の一瞬には、会場全体が息を飲んで舞台を見守る瞬間が
あったように思いました。



見ている間は、理性なんて掻き消えてしまっていて、我を忘れて見ているだけだったのですが
客電が付いて、自分の居た場所が、夢でも幻でもない現実のライブハウスであったことを知った時の
「嘘でしょ?」って驚きが、本当に強烈だったこと。上でも書いてるけど二回書きます。

素晴らしかったです。
きっと来年には、本当にこんな小さな箱で、濃密に近く見つめることなんてできなくなるだろうから
今のうちに、見ておいた方がいいと思います。気になった方はぜひ。

この日貰った前回ワンマンの映像から、写真を幾つか貼っておきます。
この日の映像ではないのですが、世界を染める説得力を伝える証左の一つになれれば。

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画面キャプチャなもので、鮮明じゃなくてすいません。
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by pinngercyee | 2013-02-03 19:08 | 日々
先日ここで「引っ込みつかないくらい大好きになってしまった」と記事まで書いたLIPHLICHですが
友人に向けて「LIPHLICHかっこいいから!私、全曲紹介やるから!」と宣言した手前
嘘になる前にやっちゃおうと思います。

CDのライナーノーツの仕事をしたことはあると言えども
音楽解説できるほどの知識も語彙もあるのかどうか未だに甚だ心許ないですが
好きなものはちゃんと良さを伝えられる文章が書けますように祈るばかり。頑張ります。



では先日のブログで触れた再録して再発売されたフルアルバムから。
『SOMETHING WICKED COMES HERE AGAINST YOU』



1. リフリッチがやってくる
イントロで行進を思わせる足音が近づいてきます。
重厚な導入部に続き、場の空気が染められたタイミングで「サーカスがやってくる」という
フレーズが高らかに宣言されます。
このタイトルなのに、一度も「LIPHLICHがやってくる」とは言わないのが格好いい。

2. 猫目の伯爵ウェンディに恋をする
二曲目。ファンじゃない子がライブで見かけて「猫目の伯爵が好き」と感想を言うくらい
おそらくライブを重ねてきた中での代表曲の一つなんじゃないかしらと思います。
歌詞を読まない状況で聴いていて、何度聴いても「IT社長が火の輪をくぐる」としか
聞こえないフレーズがあって、長いことひっかかっていたのですが
歌詞を見てみると本当にそう書いてあってのけぞりました。
猫目の伯爵目線での最後の言葉「しょうがないか、だって君も人間だから」の存在感も特筆。
【追記】猫目の伯爵について考察記事を書きました。

3. グルグル自慰行為
導入部より体が左右に振れてしまうくらい、軽快で耳馴染みの良いうねりがあります。
私、この曲がこのアルバムで一番好きかもしれません。
「音の出ない楽団の少年たち12人(途中で11人に減る)」が登場人物です。
「暗いガーデンの空と 君と かがり火焚いて廻る」というフレーズの薄暗い愛おしさ!

4. 僕らの使い捨て音楽
軽快なドラムロールに、軽快なピアノとギターが強い満ち引きを作るこの歌は、最初聴いた時
「なんつーメタ視点な歌なんだ」と驚いたものでしたが、このタイトルを冠しつつ
自分たちの音楽に誇りを持ちつつ、自分の作品を大切に演奏する姿勢を保っていて
潔さのような覚悟を封じた歌なんじゃないかと思うようになりました。
「星屑の木箱 中身は何でしょう? 価値も分からない奴が値札付ける」
「逆らう者には花束をあげよう、従う者には紙とペンをあげよう」と軽快に歌いこなす後に
「星屑の木箱 中身はホラーショー 価値を求めた奴が匙を投げる」
「価値を見付けたが勝ち 使い捨ての音楽」と着地点も備えています。凄い。

5. Recall
先日のライブで「LIPHLICHで一番古い曲」として紹介されていた曲です。
穏やかな曲調で、静かに風景を描こうとしているのが伺えるこの曲は
聴いた時に、とても素直な率直さを感じます。今はきっとこんな曲書いてない気がする。
ポーズや言葉で身を飾ることを知る前に、悲しみというものを曲という形に
誠実に起こしたという感触がします。
こんな曲を今も大切に演奏してくれていることがファン的に有難いことだと感じます。

6. 淫火

「あちらとこちらの間で蝶になりたいなれない人々 列となる」地の果てのような場所で
「香りに侵されて淫火に飲み込まれた」人々を見下ろす「境目の上に立っている偉そうな門番」が
『何度でも味わいたいなら またおいで』という一言を残して、門が閉じられます。
映画的、という言葉を使ってもいいのではないかしら。
映像を見ていないのに地獄のような景色が、音楽を通して見える一曲。

7. 嫌いじゃないが好きではない
凄いタイトルです。これまた耳馴染みのいい体が揺れる音楽の中で朗らかに
「それは僕にとって関係ないことだからお願いさ その口は開けないで」
「別に嫌いじゃないさ 好きではないけど」「どうだって言えるさ 赤の他人だからね!」
と歌詞に沿って口に出す痛快さ。
こんなこと、普段思ったって気を使って口に出さないもの。代謝させてくれてるのだと思います。
というか。こんなことを書いたら私が普通に嫌な奴っていうのがばれてしまうと私が怯んでますが
これを自ら作品にする姿勢を凄いと思います。これっておそらく文学の役割。

8. メリーが嫌う午後の鐘
暖色的なフレーズに引きずり込まれた重厚さの波の上で、登場人物の女の子「メリー」が
カーテンを閉じきった部屋で、午後に弱弱しく鳴る鐘を怖れている情景が描かれます。
「かくれんぼをね していたんだけど 誰も見つけてくれないままで」
「ランプ灯せば 壁の絵画がモノクロと分かる」
「落ちた絵本の3ページでは悪魔が天使を慰めている」
絶対に来ない「13月」を待ち望むメリーに、「僕」はカーテンを開けようと囁きかけます。
4分余りの音楽の中に、映画的な情景を見ることのできる一曲。圧巻。
「Bell is ringing. Bell is ringing.」の繰り返されるフレーズが神々しく時間を止めます。

9. マディソン郡の橋の上で
正直言うと、アルバムの中で一番印象が弱い曲かもしれません。
「真意を無くした言葉が形をすり替えて 季節とともに僕とともに 風になり鳥になり」
「もうじき長い夜は終わるから」「春だって散りゆく中で 僕らきっと永遠さ」
掲題の映画がモチーフなのだと思います。言葉を無くした恋人たちが過去をどう定義するか
穏やかな音楽を背景に揺らぎながら、「想いは部屋に置いてきた もう一度会えるから」と
一線を引く絵画のような一曲。
他の曲に比べて、アルバムの中での印象が弱いという暴言を吐きましたが
聴く度に描かれる絵画の美しさに胸を打たれる曲でもあります。

10. 航海の詩
雨が地を打ち、雷鳴が轟く中で、祈るような合唱が響きます。
嵐の海を形容するかのような重いうねりと、雷鳴のようなシンバルが差し挟まれる視界の中で
「これは僕ら『自由』の反逆の詩」「これは僕ら『自由』の再生の詩」
と自ら歌を力強く定義して、真っ直ぐな視線を世界という名の嵐の海に向けるような
怯みなくLIPHLICHという存在を賭けて、覚悟を表明した宣言の一曲だと感じます。
先日のワンマンで、これから活動していく挨拶に続き、その日最後の曲として演奏された曲で
強く胸に響いたのを憶えています。

11. 淡いドロップ色の髪-Full Version-
ヴァイオリンのような弦楽器の優美な導入に続き、ドラマチックな展開を備えたこの歌の
特筆すべきは「悲しいのは貴方じゃない」という一節の断言の存在感だと思います。
「淡いドロップ色の髪を揺らして 何も変わらない目で僕を見」るかつての恋人に対して
「苦しいの 悲しいの 嘘でしょう すべて芝居に見えるよ」と詰りながら
「悲しいのは貴方じゃない」と苦々しく宣言する「僕」は「今とは違っている物語」を想います。
抒情詩の形を取った、痛々しく悲しい恋物語を定義する美しい一曲だと思います。

12. BABEL(Bonus Track)
なんでこの曲のタイトルが『BABEL』なのか、腑に落ちていない頃から、この歌の
「林檎を放り投げてから落ちるまでの時は 長いのか? 短いのか?」という問いかけと
「林檎を放り投げてから落ちるまでの時は 長いんだってことを知って」という回答が
歩いている時なんかに、不意に口をついて出てくる歌でした。
Bonus Trackとのことですが、この歌が収録されたことを、本当に嬉しく思います。
高い塔の上から、文明の形と精巧な世界と人々の群れを見下ろして、
「欲張りは非現実な世界の空を油絵の具で塗りたくって」いることを
言葉と音楽に表出していることに強く意義を感じます。
軽薄な表現者が用いたら、薄っぺらく頭悪くしか形にできない題材を正面から用いる度量に感服。





既にだいぶ長くなってしまっていますね。。
後は、その他から代表的な曲をかいつまもうと思います。



シングルでPVも作られている『Ms.Luminous』です。

ぶっちゃけて言うと、私この歌を初めてYOUTUBEで見た時に「あ、やられた」と思ったのです。
「もしもアタシが死んだ時には スープにして食べてよね」という一節が
そのうち書こうと思ってずっと暖めてた小説の題材で、しかも形として格好良くて。悔しいです。
それで「この人たち何なんだろう」と気になり始めたのが、LIPHLICHの最初の印象でした。

【追記】
『Ms.Luminous』とそのアンサーソング『月を食べたらお休みよ』に関して考察記事書きました。


同じく上記CDに収められている『My Name Was』もおそらくライブ定番の代表曲。
「名前も顔も知らない人の指先が問う 『君の名は?』」というロマンチックな一節に続き
怒涛と言うべき音楽の波に溺れながら息をして、飲み込まれていく感触があります。
滝のように滴り落ちる波が平らになった後に、溜息のように差し挟まれる
「コーヒーに垂らしたミルクのように 渦を巻いて君とゆっくりと落ちていく」という叙事と
「ソブラニーの香りが目に染みる」
という静けさに怒涛を込めた一つの曲が収斂する瞬間が美しいと思います。



『Ms.Luminous』に続いて昨夏発売された『LOST ICON'S PRICE』は
架空のカルトスター、ICON(イコン)の成功、失墜、没落までの人生の物語を構成曲で表現したLIPHLICH初のコンセプトミニアルバム。
物語の幕を開ける「start to ICON」からライブでの定番曲になりつつあるゴシックナンバー「KNOCK BLACK DOG JOKE」で序章を語り、ICONの夢と絶頂を歌った「夢見る星屑」、憂鬱、失望を楽しげなミュージカルロックに乗せた「フェデリコ9」等、一つの物語を軸に新たな世界を作り出す「LIPHLICH」必聴のミニアルバム。(公式より引用)




印象深い曲を取り上げていきます。
2. KNOCK BLACK DOG JOKE
「ここでさあ 見せてあげる」という一節に牽引される物語の幕開けと
「ここでさあ 見せてくれよ」という一節で行われる「素顔」の要求が魔法のように響きます。
(もし君が僕の犬なら、僕が君の神様になってあげるよ)という内容の英語を
自ら(ただの冗談だよ)と笑い飛ばすのは、格好いいと言わざるを得ないと思います。

3. 夢見る星屑
「初めまして 私の名は夢見る星屑といいます
 なじめません この姿 綺羅綺羅してて 素敵でしょう」
とショービジネスに祭り上げられて間もない少女の独白のような一節に始まるこの曲は
途中から恐ろしいほどに表情を変えます。
「誰かが教えてくれた 金の切れ目は命の切れ目」
「外れた故の絶頂を味わってみたら もうお終い」
「お遊び上手の私の頭の中 ピンクにパープルを混ぜたならばできあがり」
バーレスクで女の色気を売ることを提案されて、「艶めかしいアンヨを突き上げ」ること
チョコレイトを「頬張って堕ちて逝くところまで逝こう」と思う主人公は自分の姿を
「こんな日々は正に星屑のごとくでしょう」と笑います。数分間に封じられた物語の密度。

4. フェデリコ9
慎ましさのあるドラムロールに「ワンツースリーワンツースリー フェデリコナイン」という
強烈なフレーズが差し挟まれて、一気に展開していくジャズにも似た演出のグルーヴィな一曲。
他の曲は概ねボーカルの久我さんが作曲を担当していますが、この曲はベースの進藤さん作曲です。
仕事で忙しい時に、この歌の「あの件、どうなっているの 口癖はいつも一寸待ってくれよ」が
不意に思い出されて「ああああ」ってなります。

5. It’s a good day to anger
めっちゃ早いピアノのアルペジオに牽引される端正な曲に、怒りを込めた詞が乗せられます。
無責任で暴力的な「エトセトラの目」「エトセトラの弁」に怒り、焦り、翻弄されつつ線を引き
「Final countdown」は「tick tack」と時間を刻んでいきます。(ここのライブパフォーマンスが格好いいので見てほしい。杖を秒針に見立てて観客に向けて揺らすのです。)

6. River West
「孤独だって知って 認められなくて 汚れた部屋の中で 眠れなくて祈りを」捧げる歌。
「聴こえるかい? 今なら言えるよ」と誰にも届かない前提で捧げられた祈りは
「聴いて聴いて聴いて聴いて」「生きて生きて生きて生きて」という単語に収斂されて
幕引きを迎えます。

7. LOST ICON’S PRICE
「晴れてさよならさ」「そんな僕の意味 残したものは何?」
光の指す方へ、憂鬱と後悔と幸福を胸に、一人きりで進む人の独白を歌うアルバム掲題の最終曲。
「紅茶飲みながら これで良かったと君は言う」「ねえ 僕の価値 後で分かるかな」
物語の終幕は、孤独と絶望の中で進んでいったように思えるけれど
彼が抱きしめたものの中に「幸福」が含まれていたことに、救いを覚えます。
30分程度のCDの中に映画のように封じ込められた人生の密度と、栄光と絶望の深さは
この曲によりエンドロールへ導かれていくことを感じます。
この作品が断片的なものではないところに、作品への責任感を強く感じました。



三曲入りCD『6 Degrees of separation』は現在完売になっていますが格好いいので再発売を期待してます。
1曲目『VESSEL』は、バンドで世界を描く際の、正統派で系譜的なアプローチだと思いました。
「今は流れてしまうものでも ずっと注いでいると いつか満ちるまで」という一節が
指標として心強く思います。

2曲目の『淫火』は上記参照。
3曲目『thread of salvation』は細かく刻まれる旋律に導入される薄暗い風景画を思わせる一曲。



あと、あれです。ライブ会場限定CDの『PINK PARADE PICTURE SHOW』。

前回も貼ったけど、これまた好きな曲なので、また貼ります。
これ、ライブ来ないと買えないのが勿体ないくらい格好いいと思うのですが。
『猫目の伯爵』に登場するウェンディがこちらでも登場しています。同一人物なのかしら。
曲とアプローチは超ポップながら、盲目的な付和雷同の人々の群れに合流して戻れないというモチーフが
なかなかえぐい社会批判なのかもしれないと、ちょっと思ったりしました。



こうやって書いてみて、どうしても歌の背骨である詞を軸に紹介を書いてしまったけれど
これら幻や物語を形作るのは、彼らの備える質の高い音楽の力に他ならないと思いました。
世界を彩るうねりや、ドンピシャなタイミングで差し挟まれるギターの導きや
ドラムやベースの地盤がないと、もしかしたら届かなかったかもしれない物語なのだと思います。
だからこそ、音楽を用いて人に届く幻を形作るということの凄さを改めて思ったりしました。

すごい長くなってしまいましたが、頑張りました。
格好いいバンドだと思うので、誰かが興味を持ったら嬉しいなあ(^u^)と思います。


☆★追記 20130625

3月に出たMANICPIXIEが特筆すべき格好よさなので貼っときます。

考察記事も書きました。ので良ければ併せてどうぞ。

こんど、7月に出るシングル『マズロウマンション』の試聴が上がってます。
こちらも曲だけじゃなくて、ジャケットやらを含むアプローチが格好良くて眩暈。

B級ホラーが好きな人に反応して欲しい。そして共感して欲しいです。
『マズロウマンション』考察はこちら。

☆★追記 20130629

というか。凄いことに気付いてしまったのですけど。
今まで「絶版だー」とか「完売だー」とか「限定だー」とかでもう買えないと嘆いていたのが
レコチョクで大半ダウンロードできてしまうということに(@_@;)
上記で紹介した曲の、大半はここで落とせます。。

月を食べたらおやすみよとかまでダウンロードできるじゃないか!!まじか!!
浮世のはぐれ蝶初めて聴きました。。

☆★追記 20131007

ニューアルバム『フルコースは逆さから』紹介記事を書きました。
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by pinngercyee | 2013-01-20 16:14 | 音楽
私の中で、今、すごい流行っている、という言い方も上からで傲慢で嫌だな、ええと
久しぶりにグラマラスなバンドに夢中になっているので、ちょっと書かせてください。

以前、「友人に教えてもらって、格好良くて驚きました」と書いて
サラッと動画貼ったことがあるバンドなのですが、先日初めてライブへ行ってみて
さらに新しく録りなおしたというCDを聴いて以来、「何これかっこいいーーー」と
正直に書くと、ちょっとひっこみや誤魔化しきかないくらいに大好きになってしまいました。

いや、好みが合う人にしか伝わらないかもしれないですけど。
でも、一般的なビジュアル系、みたいなものに見做されて、彼らの描く濃密で蠱惑的な幻が
本来届く人に届かないのって、本当に勿体ないと思うのです。
多分、そもそも私自身、このバンドを「最近人気あるビジュアル系のバンド」として
初めて名前を知ったとしたら
「ビジュアル系は、いいや……(=_=)大人だし、最近のは興味もないし」と
聴く前に、一線を引いてしまっていたと思うのです。



先日ライブを見て、一番驚いたのが、作詞作曲全てを手掛けるというボーカル久我さんの
手指の先、靴のつま先や、髪の毛の先までに行き届いた美学の存在でした。
詞や曲にとどまらない、バンドの描く世界を全て支えているのは、この久我さんが全身に纏う
潔癖ですらある美学だということが、見ていて伝わってくること。
手指や、靴のつま先や、髪の毛の先にすら、神経が通っていると言ったらいいのかしら
一挙手一足投に至るまで、存在総てに説得力があって美しいのです。神々しいくらい。
私も(文章に関しては特に)美意識は持ちたいと思う方ですが、これほど隅々まで潔癖なほど
美意識を纏うことなんて、出来ていないことに自分を恥じる気持ちがしたのも本当です。

そして華奢な体躯の久我さんが、金髪と細いスーツでステージの中央に立ち、
視線を動かすことで場の空気が変わるのが、見ていると自然に分かります。
何かを思い出しそう、と思ってから延々と考えていたのですが、何を思い出しそうになったのか
ようやくさっき、歩いていた時に気付きました。
イエローモンキー初期の、吉井さんが作っていた濃密な歌の世界と
その傍らでバンドの作っていた音楽の幻の説得力。
例えば、『フリージアの少年』だとか、『真珠色の革命時代』のような。
(他のバンドや人を引き合いに出すのは失礼だと承知しているのですが、すみません)
何でもない薄汚いライブハウスを、神々しさや淫靡さに満ちた場所に変える魔法を持つ
私の知る限りでは、数少ないバンドだと、感じました。



上記の動画の当時から、現在ではギターの人が変わって
良い意味で、だいぶ雰囲気が変わってきていると思います。輪郭の線が濃くなったというか。
退廃的で、グラマラスで、美学が核にあるロックバンドが、ビジュアル系という流れを汲んで
少しでも多く、好きになってくれる人のところへ音楽を届けようとするということも
流れの中で動くしかない音楽に限らない日本の仕組みの中では自然なことのようにも思えます。

退廃だとか、淫靡だとか、見世物小屋だとか、グラマラスな音楽だとか
そういったものに目が留まる人には、半信半疑のままでいいので、聴いてみてほしいと思いました。
これくらい美学を全身に纏って、歌を幻の魔法に変えることのできるバンドは、居ないと思います。

あと、歌詞の言葉選びがとても面白いのと、ワンフレーズに含まれる景色が絵になります。
そして、歌詞の中、ひとつひとつに物語や情景がある三人称小説のような形のものも多いです。
三人称、というのも分かりにくいと思うのですが、言い換えるとしたら
歌っている本人と、歌詞の中の人間が別の人間で
それを歌うことで歌の登場人物を演じる要素が発生する距離と言えるかもしれません。
映画的とも言えるかもしれません。




ちょっと書くつもりが、だいぶ書いてしまいました。
ここまで読んだら、貼った動画くらい見て行ってください♡
書いた内容が本当なら気になるけど、正直褒めすぎ(買被り)じゃないか?と思う人は
ライブ行ったらいいと思うのです。
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by pinngercyee | 2012-12-03 01:21 | 音楽