私には「ちえちゃん」という友人がいます。
彼女と出会ったのは、10年と少し前、私が一つ目の大学を辞めて、実家に帰った頃でした。
実家のある地元の岡山に帰った私は、若い人の集うカフェで働き始めました。

そこは音楽のイベントを催したり、企画展をおこなったりと
岡山の街の中でも若い人の文化の集う場所だったのですが、私が端居したその場所の中で
時々行われていたのが『Happy Hippie』という詩の朗読イベントでした。

当時、京都に住んでいた頃から、小説を書きたいと思う気持ちを持て余しながら
【美しいものを自分で作り出すこと】に憧れを抱いていたものの
自分の語彙力や表現力、なによりも文章力の不足を自覚していた私は
芸術(特に小説、絵や音楽は最初から諦めていたので)を自らの手で作り出すことのできる人に
強く共感と憧れと劣等感を抱いていました。

書きたい物語もありました。高校生の頃から、いくつかの物語の概要をノートに書いて
その情景やワンシーンを思ったりしながらも、その情景や関係性を取り囲む世界を描く力量がなく
私は断片的な情景を、いつか小説を書く力量が付いた時に形にしたいとノートに書き溜めることを
日課としているような日々を送っていました。

ある日、催されていた何度目かの詩のイベントの参加者の人と言葉を交わすことがありました。
「詩は好きですよ。伊藤整と寺山修司の素直なものが好きです」
何の気なく答えたこんな言葉に「書かないの?」「書いてないの?」という言葉をかけて貰い
その次の開催より、私はそのイベントのメンバーとして参加させてもらうことになりました。

『詩』として、言葉単体で存在する芸術形態を着地点に見据える人を詩人と呼ぶのだと思うのですが
私が当時書いていたものというのは、「いつか小説にしたい」という前提の断片的なもので
正確には詩と呼べたものではなかったと思います。

それでも、『Happy Hippie』のメンバーは自意識が強く態度の良いとは言えない私を
詩人として扱ってくれ、居場所を与えてくれました。
言葉を自分の作品として人前に出すという経験を、私はここで初めて経験したのだと思います。

「ちえちゃん」はそのイベントの中心にいるメンバーの一人の、私と同い年の女の子でした。
ちえちゃんは、色が白く肌理が細かいつるんとした肌をして、華奢な体躯に古着のワンピースを着る
「かわいい女の子」として、私が羨む要素を生まれつき持っているような女の子でした。

ちえちゃんは、可憐な外見に一見そぐわぬ、なまなましい言葉を操りました。
肌を刃物で撫でるような。チリチリと静かに焼かれるような。
痛みを伴う切実さを帯びた言葉を、無駄なく鋭く細い声で静かに読み上げる詩人でした。

同い年であり、私の羨むセンスの良い華奢で可憐な女の子であり、自分の作風を確立しているちえちゃんに
今になって私は劣等感を覚えていたのだと思います。

それまで一人でノートに書き溜めていた言葉を、初めて人前に発表するようになった私に対し
ちえちゃんは既に詩人として、出版社から詩集を出していました。
『掌の力を弄ぶ』
そう題された赤い表紙の一冊を、私は当時、彼女に「読む?」と聞かれた時に
「ううん、今は読まない」と答えたことがありました。
今となっては、本当に失礼な話でしかないけれど、当時の私にとって、そう返答することが
精いっぱい、自分の矜持を何とか保つために必要な虚勢だったのだと思います。



一年足らずで私は再度の大学受験を理由にその会を去り、関係者との連絡も途絶えました。
その後、大学という四年間のモラトリアムを過ごす権利を得て
私はその四年間は小説のことだけを考えて過ごすという覚悟をし、東京で暮らし始めて
やっと私は劣等感と自意識を脱して、自由に振る舞えるようになった気がします。

ちえちゃんと私が、詩を介さない一人の女の子同士として再会することが出来たのは
私が会を去ってから、数年が経った後だったと思います。
「私、当時、ちえちゃんが羨ましくてしかたなかったんだよ。
 だから素直にできなくて感じ悪かったと思うの。ごめんね」
と打ち明けた私に、ちえちゃんは驚いたように笑いました。

毎月顔を合わせていた十年前の当時よりも、年に数度しか会わない現在の方が
私は彼女と精神的な距離が近くなったと思います。
十年という時間が経つと、屈託なく笑う彼女も、今ここにいる私も人生を歩んできていて
当時では想像もしなかった現在を、お互いに離れた場所で生きているのですが
私は、年に数度の帰省の折に、彼女に会うことを毎度の楽しみにしています。



今年のゴールデンウィークに帰省した折、彼女と二人で『猫魔音』に飲みに行き
その前回約束していた彼女の本を、私はやっと手にすることができました。
「あの時、『今は読まない』って、いぬちゃんが答えたの、今も憶えてる」
「うん」
「『おっ』って思った」
「恥ずかしいから忘れて」
そんな会話をしながら近況を話し、お酒を飲んで笑い、帰り際に彼女は
「この本は、若気の至りで、痛々しくて恥ずかしいから、帰ってから読んで」
と私に言いました。



彼女の言葉に従い、私は岡山に居る間、その本を受け取ったままの封筒から出しませんでした。
出せなかったのかもしれません。岡山に暮らしていた当時の鬱屈した気持ちと同じ家の中
当時の私が嫉んだ本に向き合う勇気が持てなかったという部分もあると思います。

私は、東京に戻る新幹線の席に座って、缶ビールを一本空けてから息を整えて
ちえちゃんの本を、静かに封筒から取り出して開きました。



その言葉の鋭利なこと。
何の気なく構えずに、本を開くように努めた私の意識など吹き飛ばしてしまうほどの強さで
彼女の言葉は、私が十年前に目を見張り、息を飲んだなまなましく鋭利な彼女の言葉は
当時の精度を保ったままで、そこに完全な形で保存されていました。

a0223987_0135868.jpg

a0223987_014455.jpg

a0223987_016548.jpg

a0223987_0162970.jpg

a0223987_0443543.jpg

a0223987_0462383.jpg


写真が稚拙で申し訳ないですが、彼女の言葉が誰かの元へ届いて
その誰かが生身の肌を、チリチリ焼かれるような痛みを味わうことを祈ります。
彼女の言葉のなまなましい触感を伴う切迫性が、一冊の本として存在したことを
そしてその本と、十年遅れの今になってしまいましたが、正面から対峙できたことを
私は心から嬉しく思います。
当時、適当に読んでしまわなくてよかった。
今になって向き合うことが出来て本当に良かったと思います。

ちえちゃんは現在は言葉から離れて生きていますが、彼女がこの一冊を世に出したことを
彼女自身が誇りに思えますように。

アマゾンでは中古しかないですが、気になった方は、今からでもぜひ。
[PR]
by pinngercyee | 2013-07-01 19:05 |
おこんにちは。
窓辺卒業のお知らせの裏で、ひっそりと春を迎えるためのものについて書いてみます。



あがた森魚『春の嵐の夜の手品師』


柔らかい匂いがして、強い風が吹く春の始めの日に、毎年唐突に思い出される歌です。
春を迎えた柔らかい夜に、これより相応しい歌を私は知りません。
「明日になれば全てが判るもの あなたが夢見た全てのことが」
春が訪れて、今まで冬が静かに守っていた夢や幻がすべて暴かれてしまうことは
やっぱり残酷なことなのだと思います。



シューベルト ピアノ五重奏曲『鱒』


名曲喫茶で働いていた頃、窓の外の桜が咲いて、黄色い柔らかい春の光が差し込む頃は
毎日のようにこればかり掛けていました。
春先のまだ冷たく澄んだ水の中を、すいすいと小さな魚が泳いで行くのが見えるみたいです。
鳥が鳴いて、光がさして、木漏れ日が揺れている、永遠みたいな幻。
春という季節が、幸せや生命の象徴みたいな美しさがあることを、思い出させてくれる気がします。




チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲ニ長調


これも上記に同じく、勝手に春のイメージな曲。
朗らかで、無邪気で、愛に満ちている気がします。
ヴァイオリンが先頭で子猫のように軽やかに踊るのを見守るように従うオーケストラ。
そして、光に包まれた力強さで全てを巻き込んで世界に満ちる主旋律。
言葉のない音楽とはいえ、こんなに生命力に溢れて可憐だと思わせる音楽って
凄いのだと思います。



春の音楽については気が済んだので、次は、春の食べもの。

贔屓にしている和菓子屋で、草餅や道明寺が並ぶのをずっと楽しみにしていたという
そんな話はありますが、ちょっと個人的すぎるので。

去年、街はぴの記事にも書きましたが、高野の桜のジャムは美しい食べ物だと思います。

春の日の幻 『新宿高野・薔薇と桜のジャム』



そしてこの季節、毎年思い出すのが、安房直子の短編小説『花びらづくし』。
小学校の図書室で借りた『風のローラースケート』という本に収められている一作でした。

日本の山間に暮らしている茂平さんの奥さんに、ある日一枚の招待状が届く。
「さくら屋にご招待します。花ふぶきの午後、おでかけください。
 お金は、百円お持ち下さい。ぜんぶ、五円玉で、おねがいいたします」
桜の精が催すお祭りに出かけた奥さんは、小さな注意を気に留めず、恐ろしい目に遭ってしまいます。
桜の花びらで作られた美しいものを並べ、女の人たちはみんなうっとりとしている半面で
こんなに恐ろしい思いをすることになるとは、誰も夢にも思っていなかったと思います。
これが例えば、架空の話でなかったとして。
これから満開を迎えて、人々がその下に集って、一面に春の景色を示し知らせる桜の花に
本当に怖いものは潜んでいないのでしょうか。

大人になっても、子供の頃のある日に桜の幻に背筋を凍らせた恐ろしさは、未だ私の中に
息づいていることを感じます。そんな作品、そんな幻を抱く一作です。
機会があれば読んでみて下さい。

桜の季節の怖いイメージというと、私は、坂口安吾よりも、梶井基次郎よりも、安房直子です。



あ、春の歌、唐突に二つ思い出した。

吉井和哉 『パール』

これは春というより夜明けの歌だけど、夜明けを迎える絶望は、春を迎えるそれと同じだと思う。
「夜よ負けるなよ 朝に負けるなよ 何も答えが出てないじゃないか」

イエローモンキー『プライマル』

小さかった女の子が、唇を赤く塗って大人のように笑い、卒業を迎える歌。
この歌を、私は大学卒業の時期に、ずっと聴いていました。「卒業おめでとう」
個人的な郷愁ですが、今でもこの歌を聞くと、苦しくてはち切れそうになります。
[PR]
by pinngercyee | 2013-03-16 15:27 | 音楽
11月18日の文学フリマのブース番号が決まったので、お知らせします。

ブースは【A-09】、『犬尾春陽』での参加です。
配置図はこちら
場所は、一階の右奥、壁際です。

この日は、私の既刊『月夜』『領域』、新刊『ワルツ』、新刊窓辺冊子に加え
ランプ第3号のお知らせでも書いたゆきめちゃんの出した冊子『Lull』を
預かって行く予定です♡
a0223987_18374556.jpg

a0223987_18441324.jpg


ゆきめちゃんに許可を貰ったので、特別に1ページだけ、中を覗き見してみてください。
A6サイズ500円の片手に収まる小さな水色の冊子に、これほどの密度の言葉がきらきらと溢れて
砂糖菓子のような可憐さで、存在しているということに、私は初めてこの本を手に取って
本当に、息を飲みました。
この『Lull』に収められているのは、小さなお話がいくつか。
夜、眠りに落ちる前に、暖かい毛布にくるまって、耳元で優しく囁かれるような
柔らかくて暖かくて、でも手の届かないものに恋をする悲しみも薄く滲んで
どんなに考え抜かれ作りこまれた造形物よりも、『少女であること』というものを
水晶のような純度で体現しているというように思えます。
少女の気持ちの、微細な欠片を持っているすべての人の掌に届いてほしい一冊です。

この本を受け取って、家に帰って頁を繰って、小さなお話の全てを読んでしまった後に
私は3分間、無心になって、暖かく清らかな気持ちを感じながら、号泣しました。
人の心に、確実に届く言葉。言葉の純度。小さな本の可憐な言葉が、これほどの強さを持つなんて。
以前、詩を書いていた時期があるので、言葉の純度の高さというものの難しさは分かります。
だけどそんな、小難しい論理をすっ飛ばした強く清らかな結晶が、ゆきめちゃんの言葉にはありました。

この本が、少女の心を宿す人のところへ届きますように。
文学フリマを訪れる方に、特別に耳打ちしたい気持ちでいっぱいです。

花森ゆきめ

「第十五回文学フリマ」 開催概要
開催日 2012年11月18日(日)
開催時間 11:00~16:00→11:00~17:00に延長!
会場 東京流通センター 第二展示場(E・Fホール)
アクセス 東京モノレール「流通センター駅」徒歩1分
※詳細は会場アクセスをご覧下さい

[PR]
by pinngercyee | 2012-10-28 19:02 | お知らせ
『めっきらもっきらどおんどん』
a0223987_16444768.jpg

有名な絵本なので、ご存知の方も多いと思います。
私も、この本を何度も繰り返し読んでもらい、夢中になった子供の一人でした。

遊ぶ友達が見つからなかった少年は、神社の境内でめちゃくちゃな呪文を唱えます。
そして木のうろに落ちた少年は、闇夜の世界で三人の妖怪と出会います。

丸太に乗って空を飛び
a0223987_16472011.jpg

したたるように柔らかい餅のなる木でお腹いっぱい食べて
a0223987_16515657.jpg

海の見える不思議な水晶玉を覗き込み
a0223987_16532590.jpg

山を飛越し、月に届くほどの縄跳びをして遊びます。
a0223987_1654551.jpg


少年が、ふと現実の世界のことを思い出して、一度に夢がはじけてしまう最後まで
大人になった今でも、夢中で読み進めてしまいます。

この主人公の少年は、あの三人と出会って夢中で遊んだ日のことを
大人になると「小さい頃に見た夢」として思い直してしまうのでしょうか。
それとも、「子供の頃に出会った三人の友達との記憶」として憶えているのでしょうか。
そんなことが気になります。

かつて子供だった人たちと、今を子供として生きる人たちへ
リボンをかけておくりたい、三人の妖怪たちと夢中になって遊ぶ日の記憶。
私は身近な友人に子供が居たら、きっとこの本を贈りたくなると思います。
[PR]
by pinngercyee | 2012-09-17 17:02 |
『かいじゅうたちのいるところ』で有名な絵本作家センダックです。
『かいじゅうたちのいるところ』しか、知らない人に
センダックがどんなに強く美しい本を書いてるか、知ってほしいです。一ファンとして。

『まどのそとのそのまたむこう』
a0223987_15351131.jpg


タイトルが良いですよね。『窓の外のそのまた向こう』って、手が届かない場所の象徴みたい。
「子供向け」の名目で数々の良質な絵本を書いているセンダックが
この本に関しては、美しい絵本を書こうと思って書いたのだろうなということが感じられます。

ホルンの練習をしている少女の傍らで、窓から忍び込むゴブリン達が
氷の人形と引き換えに、妹である赤ちゃんを攫います。
a0223987_15414451.jpg

a0223987_15434257.jpg


妹を攫われたことを知った少女は、ゴブリン達を追うために窓枠を越えて外の世界に向かい
辿り着いた洞窟で、ゴブリン達の正体を暴いて、妹を奪還して戻る話なのですが
何よりも、描かれている世界の描写が美しいです。
a0223987_15462917.jpg


船乗りの父からの手紙。庭のあずまやに居る母。それを取り巻く美しい草花。
その世界の中で、攫われた妹を取り戻すことが出来るのは、少女でしかないのです。
物知り顔の大人が「暗い」「不気味」と切り捨ててしまうこの緻密で繊細な絵本世界は
少女自身が戦わなければいけない彼女にとっての現実です。

子供は、守られるための子供として生きているのではなくて、小さな人間として生きています。
それぞれの場所で守るべきものもあるし、立ち向かうべき時もあります。
そんな当たり前のことを、少女を一人の自立した人間として描くことで思い出させてくれる
この本は、子供時代の私にとっての、標のような一冊でした。
[PR]
by pinngercyee | 2012-09-17 15:57 |
二冊目は『ロミラのゆめ』
a0223987_1453517.jpg


ネパールに暮らす少女ロミラについての絵本です。
日本で子供として生きている私、とは全く違った世界で生きる少女ロミラの暮らす日常は
絵本の挿絵の力もあるとは思いますが、とてもロマンチックで素敵なものに思われました。
(きっと大人になってからこの本を読んだんだとしたら
 私はおそらく、ロミラの暮らしに憧れや羨望を抱かなかったと思います。)

山を越えて、山羊を追う仕事の合間に、野生の果実でのどを潤すロミラ。
a0223987_14571363.jpg

自分にとっての普通である日本の夕食風景とは全く違う、電気のない家の中の夕食風景。
a0223987_14581872.jpg

夕食後、街灯もない田畑の中の道を抜けて、子供たちは一軒の家に集まり
a0223987_1504646.jpg

少女たちは奏でられる音楽や歌に合わせて、踊ります。
足首に鈴をつけたロミラのステップに合わせて、鈴の音が響くさまが見えるようでした。
羨ましかったです。夜中のダンスパーティ。
a0223987_154616.jpg


神聖な山『マチャプチャレ』は、光に照らされて色を変えながらも
そのふもとの人々の暮らしを見守っていることが、伝わってきます。
a0223987_1583528.jpg

a0223987_1592176.jpg


日々の中での信仰って、きっとこういうものなんだと感じました。



ロミラのことが羨ましかったです。私とは別の世界で暮らしている少女、ロミラ。
この本を開き、読み返すたび、ロミラの見ている世界を私は憧れを持って眺めました。

ウィキペディアでマチャプチャレを調べてみて、さっき初めて知ったのですが
「神聖な山なので、登山禁止で、人類未到頂」なのですね。
そのふもとに暮らす人々にとって、神聖であるということが
どういうことなのかということを考える機会になりました。

神聖さ。
[PR]
by pinngercyee | 2012-09-17 15:19 |
思いついたので、私が子供の頃に好きだった本のことを紹介しようと思います。
何十年も文庫で貸し出された実家の祖母の蔵書なので、本が汚いのはご容赦ください。。


『ゆうやけのじかんです』
a0223987_14112181.jpg


子供の頃の記憶を辿って、一番に思い出すのはこの本でした。
祖母はこの本のことを「子供の本として」それほど評価していなかったらしく
積極的に読み聞かせてくれたという訳ではありません。
祖母の蔵書庫になっている部屋の中で、幼稚園に入る前から私は一人で遊んでいて
この本を取り出しては、絵に見入っていました。

a0223987_1417432.jpg

白いワンピースを着て、白い帽子で顔が隠れた少女が一人、野原でブランコに乗っています。
『ギボギボ』と名付けられたブランコは、ひとこぎするたびに周囲の景色を変えて
少女を色んな世界に連れ出します。
a0223987_14204344.jpg

うさぎのぬいぐるみと、食べきれないほどのケーキを食べるという幻。
a0223987_14223187.jpg

海原の向こうに、真っ赤に燃える太陽が落日する瞬間を見ている時、
その赤さの最後の一滴が消える瞬間に、少女はその赤さの中へ飛び込みます。
a0223987_14232572.jpg

飛び込んだ中の世界で出会った蚊の『ポカ』とともに少女は音楽の導くままに進みます。
a0223987_14242334.jpg

音やリズムやメロディーに心が躍るまま遊ぶ少女と、もはや親友の『ポカ』。
a0223987_14261914.jpg

しかし、いずれ幻は失われ、少女はブランコをこぎ続けていた自分に気付きます。
a0223987_14275061.jpg

幻が幻であることを落胆することなく、少女は暮れゆく本物の夕日の赤さに向かって
その赤さの中に住んでいる親友『ポカ』に向かって呼びかけます。
「素敵なところにいるのねえ」「またねえ」
a0223987_14284973.jpg




これだけの内容ですが、私は子供の頃にこの本を読んで、本当に救われる部分がありました。
自分だけの見た幻の景色を、肯定してくれるという本は、あまり多くはありません。
大人は自分に見えず、子供が見たというものを、基本的に信じないものなので
自分の見た夢想や幻、そういったものを自分の中で肯定していいんだということを
私に教えてくれた一冊だと言えると思います。

ついでに子供の頃の話をすると、大人が当然という現実と、絵に描かれた物語の違いは
私は見分けることが出来ませんでした。
そのことで、小学校に上がってからも、長年不思議な子供扱いされた覚えがあります。
でもテレビのニュースでやる内容と、映画の中で繰り出される物語と
教科書の中の歴史と、昔話と、絵本の中のお話と、どこが違うというのでしょう。
現実と呼ばれることがらも、物語と呼ばれることがらも、両方本やテレビで描かれるものです。
ドイツの昔には魔女狩りがあったというし、魔法使いもいたかもしれない。
竜という生き物が居なかったかどうかなんて、そこらの大人には分からないのです。
人間や犬猫の命が重くて、虫や雑草を平気で殺していいという線引きも分からないし
私の見たもの、私の信じる現実を、大人が笑い飛ばすのも分からないという状態でした。
そういう子供を大人は微笑ましく『夢見がち』と呼ぶことも併記しておきます。

私は分別が付く前に本を与えられていたから、人よりもその兆候は強かったのだと思うのですが
現実にあるもの、ないもの、として小さなころから線引きできている子供は
それほど多いとは思いません。

そのことを、自分が子供だった頃に考えて、そして忘れてしまっている人に
この文章が届くといいなと思って、今これを書いています。
[PR]
by pinngercyee | 2012-09-17 14:47 |
鳩山郁子さんの、新作画集のページができていました。

リテレール公式サイト

a0223987_2339637.gif




















世の中には、美しい(と言われている)絵が
あらゆる場所に飽和するほど沢山あると思うのですが
私が今まで生きてきて、息を飲むほどに目を奪われた絵というのは
思い出しても、それほどたくさん在るわけではありませんでした。

鳩山郁子さんの絵は、私が中学生の頃に手にした本の挿絵として知ったのがはじめだったのですが
小説に添えられた控えめながら端正で静的な景色は
単色のインクで刷られているのが不思議に思われるほど、美しいものでした。

窓辺から差し込む日光に、はじける炭酸水の泡。
光の屈折を透かしたガラス瓶入りの飲み物と添えられた植物。
テーブルの上に置かれたそれらの静物を描写したスケッチのような一枚の絵が
時間の止まった永遠の午後の象徴と呼べるもののように思え、
息を潜めて何時間も見つめていたのを思い出します。

銅版画を思わせる硬質な筆致と、光と空気を透かすような美しい情景。
美しいなんて言葉では、足りないと歯痒く思います。
鳩山さんの1993年刊のspangleという一冊よりも、私にとって特別な本はありません。
少女の頃の多感な時期に触れたものだから、と思われる向きがあるかもしれませんし
実際そういった部分もあるのかもしれないですが
木漏れ日や午後の日溜まり、水琴窟の鳴る日の幻や、幻燈の夜の空気など
鳩山さんの描く永遠にも通じる密やかで硬質な結晶とも呼べるイメージは
きっと私が死ぬまで、「美しいもの」の具体的な景色として、宿り続けるのだと思います。

私が美しいと信じるものを
教養も美意識もある人に、言葉を尽くして伝えようと試みて
共感してくれる人も
理解してくれる人も
共感どころか理解すらしない人も
興味を持っているふりをするだけの人も
いることは知っています。

私が美しいと信じるものが、喜んでくれる人に届きますように。
おこがましいと思いつつも、そう願わずにいられません。

鳩山郁子さんの画集が出ますよ!
喜んでくれる人に、そう耳打ちしたい気持ちです。

鳩山郁子単行本index
[PR]
by pinngercyee | 2011-11-13 23:36 | 美しいもの