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知人のコントラバス弾きの人が参加する高田馬場管弦楽団の定期演奏会で
チャイコフスキーをやるというので見に行ってきたのです。

演目は『祝典序曲1812』

『ピアノ協奏曲第一番』

『交響曲第一番冬の日の幻想』

※参考までに動画を貼りましたが、動画のものではないです、ねんのため。

名曲喫茶で働いていたこともあり、チャイコフスキーは好きでCDを持ってたり家で聴いたりするものの
好きな曲でもオーケストラで生演奏をされるのを、そういえば私はほとんど見ていないと会場についてから
気付きました。
会場は新宿文化センター大ホール。1800人を収容するホールの9割は、開演前には埋まっていました。
「クラシックを聴きに行くときは、どのあたりに座ったらいいの」と、誘ってくれた知人に聞くと
「やっぱり一階の真ん中あたりがバランス良いんじゃない」と教えてくれたので
そしてそれに加え、私は演奏者の手元や表情が見たかったので、前よりの右手に場所を決めました。

演奏が始まる時。
徐に指揮棒を構える指揮者と、それに百人以上の団員の視線が集まる時、会場の中の時間が一瞬止まるのが見えたように思いました。
楽器を構え、視線が集まり、「ふっ」と流れた一瞬のタイミングで、第一音が迷いなく揃って放たれます。
慎ましく、でも迷いなく。
そして始まった演奏の中で、団員たちは鳥の群舞のようでした。
第一バイオリンも、第二バイオリンも、チェロもコントラバスも。それぞれ十人以上の人数が
全員同じ楽譜に沿って、ひとつの旋律を息を合わせて描きます。
そこには個性も自意識もなくて、むしろそんな凡俗なものを脱ぎ捨てた領域で、ひとつのものを描くこと。
それは一斉に飛び立った鳥が群舞する様にとても良く似ていました。
『無私』であるということの気高さと潔さ。そして描かれるひとつの音像。
普段見慣れているロックバンドのアンプとスピーカーを通したライブとは違って
ここにある音は全て、アコースティックというべきアンプラグドの音でしかないのです。
どれほどに存在感があって、絶対的であっても。
そして、大きなイメージの中にそこここで挿入される音の一つ一つが、どうやって発生しているか
オーケストラの演奏を前にすると、全ての音の源を目で確かめることができるのだということを
私は、この日、改めて知ったような気がします。

音の発生する場所を目で追うのが、本当に楽しくて、どんぴしゃりと滑り込んでくる揃った音の流れや
突然に響き渡るシンバル、視線を引くように鮮やかな音の金管、ひとつひとつの音の形がくっきり見えて
それがホールの高い天井の下で、一つに結実してイメージが情景が描かれていくさまを見ていると
とても有機的で大きな美しいものを見せられているのが感じられました。
まるで、神様が地球を見下ろして風や雨や雷や日光や、そういったものを操っているような。
プロフェッショナルな腕前の演奏家が百人以上も集って、無私になってひとつのものを志さないと
決して現出させることのできない情景というものは、存在するのだということを思いました。
CDを聴いたり、テレビでN響の演奏会を見ただけでは、絶対に気付かなかったことだと思います。

金管の音。バイオリンの群れ。シンバルに、大砲の代わりに振りかぶって鳴らされた大太鼓。
描かれる情景に、新しい音が滑り込む時、中央に立つ燕尾服を着た指揮者のおじさんは
壇上で、屈み、背伸びをし、踊るように手を伸ばし、飛び上がって空気を持ち上げていました。
そしてそれに従う百名以上のオーケストラと、その中空で描かれていく天地創造みたいな絶対的な情景。
「あー、神様もきっと、雨を降らせたり風を吹かせたりする時には、あんなふうに全身で飛び上がったりしてるんだなあ」とぼんやり思ったことを覚えています。
『1812』は特に、祝祭組曲だけあって、後半ではガランガランとチャイムが鳴り響くのですが
その神々しさは、本当に『祝福』という音に相応しいカタルシスがあって
頭が真っ白になるのが分かりました。
そう、あれは『感動』とか『カタルシス』って言っていいと思う。確信する感じ。目の前のものを。



その次に大きなグランドピアノが正面に四人がかりで運び込まれて演奏された『ピアノ協奏曲第一番』は
個人的にチャイコフスキーの中でも特に好きな曲で(理由は後述)
そして冒頭部の部分が始まった時に身震いを覚えたくらい嬉しかったのですが
正直、隣に座っていたカップルが携帯をずっといじっていて、液晶画面が光ってちらついて気が散って
「聴く気ないんだったらロビー出とけよ」と怒りに耐えていたため、演奏に集中できずあまり憶えていません。本当に悔しい。

この曲に最初に注目したのは、50年代に黄金期を迎えるMGM傑作ミュージカルの先駆の傑作『錨を上げて』の中で、この『ピアノ協奏曲第一番』の冒頭のメロディーに歌詞をつけて歌っているシーンがあって、それが、めちゃくちゃハマって素晴らしかったところからでした。

「Tonight we love」の後がうろ覚えなのがものすごい悔しいのですけど
この曲に、甘美極まる言葉が乗ることで、すてきーーーーと感動してCDを探した曲なのです。
詳しくは映画を見てください。ツタヤにあるので。
(蛇足を承知で言えば、この映画、グランドピアノ20台でのハンガリア狂詩曲やってたり
ジーンケリーがアニメーション合成でトムとジェリーと歌い踊ったり、いろいろと最高なのです。)



三曲目の『冬の日の幻想』は
頬を冷たくさせる澄んだ空気の中で、音もなく光がプリズムを滲ませるような、そんな景色を思いました。
美しいですよね。
それにしてもやっぱり圧巻でした。百人に及ぶ人数が、ひとつの幻を描くということが。
それぞれに一人ずつが、楽器を持ってソロを弾けるような演奏者であるのに、それらが束になって
大きな大きな音のまとまりを描くということを、改めて思いました。



終演後、誘ってくださったコントラバス弾きの知人とお酒を飲んできたのですが、その時に
「何十人も同じ楽譜を演奏することで、自分がここにいる必要を確かめられなくなることはあるか」
ということを率直に問うてみました。

「私はきっと、何十分の一だと思ってしまうと、自分がここにいる必要を見い出せなくなってしまう」
というと、彼は
「ああ、そういう人も居るね。そういう人は辞めていく」
と答えました。
「続ける人は、どう思って続けているの」
とさらに問うと、彼はグラスのワインを一口含んで少し考えた後
「どんなに上手な演奏者だって、二時間に及ぶような舞台で、一度もミスをしないことなんてありえない。一瞬音を弾き損ねてしまったり、集中が不意に途切れる事だってある。そんな時に、自分と同じ楽譜を弾いている人が十人いれば、そんな自分のミスはかき消してもらえるものだ。その反対に、ほかの人が弾けていない部分を、自分が弾いていることでカバー出来ている部分もある。それに八人で弾いた音と、十人で弾いた音では、絶対に違うんだよ。音の厚みも、存在感も、説得力も。聞いてすぐに分かること。それをなすために自分は必要なのだと、僕は思っているけどね」
と答えました。
「……ああ」
予想していなかった返しに納得していると、彼は私の反応を確かめた後に言葉を続けました。
「それにね。一人ではあの大きなものを描くことはできないもの。あの大きなものを描くために、自分がいてその一部を成しているということ。本当にいい演奏が出来ているときは、勝手に弾かされているような状態になるんだよ。手が勝手に動く。考えるすきもなく、手が勝手に動いて、先の方にある目的地へ並んで飛ぶ群れのような音と一体になって飛んでいくような」
そこまで一息に喋ると彼は、再度グラスからワインを口に含みました。
「その感覚が特別な経験で、それを目指して演奏を続けているのかもしれないね」
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by pinngercyee | 2014-02-01 14:23 | 音楽
お知らせしそびれです。
先日行ったブックカフェ槐多の記事を書きました。

ふと立ち止まることを許してくれる場所 『ブックカフェ槐多』

画像はっときます。
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このビルの上の小劇場やギャラリーも、「小さいながら良い場所なので」とのことだったので
お芝居や展示を考えてる人は行ってみたらいいと思います。
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by pinngercyee | 2014-02-01 12:57 | お知らせ