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【20140502京都行脚3】出町柳 ゴゴ



今出川通りに面したこの喫茶店の存在は、このすぐ近くに住んでいて
この店のすぐ近くにあるバス停から毎朝大学に通っていた頃から気になっていたのです。
『ゴゴ』
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恰好を付けたがる京都の街の中では珍しい少し間の抜けたというと言葉は悪いですが
幾分変わった佇まいの古びた外見のこの店の扉を押し開いてみる勇気が当時の私にはなく
私は、このお店を記憶に留めたまま、結局京都の土地を離れることになってしまったのでした。

今回の訪問で、どうしてこの店のことを思い出したのか。
しばしば京都を訪れる機会はあるけれど、私はその度に、自分にとっての特別な場所である
恵文社だとか、ゴスペルだとか、迷子だとか、河原町の周辺だとか、イノダ本店だとかを
巡回路のように回ってしまうため、今回の京都行脚では
(いつも行かないところに行こう、懐かしい、忘れかけていたようなところに)
ということを決めていたのです。
そして、普段は時間の制約に追われて、足を延ばせない場所をいくつもノートに書きだしていた時
一度も入ったことのない、この店が例外的に思い浮かんだのでした。

*

進々堂で朝食を頂いた後、私は今出川通りに沿って、出町柳まで歩きました。
存在を忘れていたような記憶を確かめながら、時に裏道に潜って歩いた先の
次の目的地はここと決めていました。

「いらっしゃいませ」
一つ深く息を吸ってから店の扉を開けてみると、柔らかい女性の声が迎えてくれました。
古い珈琲屋は何となく気難しい男性が一人で切り盛りしているのではないかと、少し覚悟していたので
柔らかい京都訛りの女性の声が、旅行鞄を下げた一見の私を迎えてくれたことで
安堵を感じて気を抜くことができたように思います。

入った左手に続くカウンター席には、数人の地元の人と思しきおじいさんが座り
新聞を開いて、めいめいにそれぞれの朝の時間を楽しんでいました。

「そちらの席どうぞ」
促されるままに空いていた手前の4人がけのテーブルに腰を下ろすと、先ほどの柔らかい声の主である
女性が柔和に笑って、水の入ったコップとおしぼりを私の前に置いてくれました。
「コーヒーを、お願いします」
「朝の時間は、茹で卵とトースト、どちらか付くのですけど、どちらにします?」
「じゃあ、茹で卵を」
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「明日、下賀茂神社の流鏑馬でしょう、土曜日」
砂糖を注ぎ、懐かしいどっしりとした京都らしい重みの珈琲を頂いていると
カウンターでお話をする声が耳に入りました。
目を上げると、お姉さんはカウンターで新聞を広げていたおじいさんと談笑しているところでした。
「行かはるの」
「いやあ、この辺住んで長いけど、行ったことないわあ」
私は手元の茹で卵の殻を注意深く剥きながら、聞くとはなしに、彼らの柔らかい京都弁を聞いていました。

この辺に住んで長い、と言った老人は、この喫茶店のカウンターで奥様が迎えに来るのを待っている様子でした。
この近くに住み、朝はここを毎日訪れて珈琲を飲み、新聞を読むという老人にとって、ごく当たり前の日常の中に、私がこの日初めて訪れたこの場所は存在しているのだということをぼんやりと考えます。
『人生に寄り添う場所』
そんな言葉が脳裏に滲むように浮かびました。

卵を頂き、珈琲を飲んで、煙草を灰皿に押し付けて火を消し、私は一時の端居を許してくれたこの場所に感謝を覚えながら席を立ちました。
レジで会計をしてもらう時に、穏やかでにこやかに笑うお姉さんに、友人から託された疑問を問うてみようと思いつきました。
「このお店、どうして『ゴゴ』って言うんですか」
私の問いに、ふと手を止めてお姉さんは少し考えるように首を傾げました。
「先代から、――ああ先代って私の夫の親なんですけど、私がこのお店を継いだ時にはゴゴって名前だったの。だから詳しいことは分からないのだけど」
そこまで言うとお姉さんは「少し待ってね」と私に頬笑み、奥に立ててあった書類の束に手を伸ばしました。
「ほら、これ」
それは何年か前の新聞でした。店主が老いを迎え、古くからのお店を続けるか辞めるか迷った時にお店を継いだのが息子のお嫁さんだったこと。それからもう何十年近い時間が経っていること。名前の由来はもう分からないこと。

「私も詳しいことは分からないのですけどね、最初にこのお店を作らはったおばあさんが居て、そこの京大か日仏会館かでフランス語を学んでる娘さんと暮らしてはって、それでその学生さんが付けたみたいなの、『ゴゴ』っていう店名は。だから多分、フランス語ってことで、それ以上は長いこと謎のまんまだったんですけど」
お姉さんは新聞記事を覗き込んで、言葉を続けました。
「これが新聞に乗った時にね、よく来てくださる京大のフランス語の先生が居てね、その人が辞書で調べて『これじゃないか』って持ってきてくれはったん、ほら」
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「……たくさん、有り余るほどの、好きなだけ」
「そう、それかね、その時代にフランス喜劇が流行ったみたいなの。その登場人物でゴゴっていうのが居るらしくて、そっちなのかもしれへんって話もしたのだけど、結局は分からへんで」
お姉さんは柔らかく笑いました。
「こんな感じの答えでいいかしら、はっきり分からなくてごめんなさい」
「いえ、有難うございました」
何十年も前に女学生だった娘さんが何を思って名付けたものかは分からなかったにしろ、この名前を冠したこの場所が、歴史を含めた何十年もの間、色んな人に取り巻かれ日常を支えてきたということは十分に分かり、そんな話を聴くことができたことが、私はとても嬉しかったのです。

「家内が迎えに来るって言うてたんやけどなあ、来いひんなあ」
私とお姉さんがレジの前で会話しているその向こう側では、奥方を待つ老人がカウンターに頬杖をつき、先ほどまで読んでいた新聞を置いて、人待ち顔で遠くを眺めていました。
「今に来はるわよ。珈琲、もう一杯飲まれる?」
お姉さんがかけた声に老人は、子供のように口を尖らせて「いや、いい」と答えました。
by pinngercyee | 2014-07-01 00:24 | 京都