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短編小説【喫茶店の話 ①白木蓮の頬】

 春先の夜。桜が咲くにはまだ早い夜。
 冬の名残の澄んだ夜闇に、白くぽっかりと浮かぶ、洋灯のような花を思い出す。
 どうしても名前が思い出せない。
 重力に逆らうようにまっすぐ天を向いて、白く気高く孤独に咲く、――あの。

 そんなことを、給仕をする少女の横顔を見ているうちに、考えていた。
「マスター、お湯、沸いてますよ」
「……え、ああ」
 ガスの炎を弱めて、もう一度頬杖をつく。

 そういえば、春休みに入った頃だろうか。最近になって、大学生のような若者が、店の前を往来するようになった。
 もう少しもすると、まだ桜も咲かないというのに、昼夜問わず公園に人が溢れて、にぎやかな嬌声が響く季節になる。

「お客さん、来ませんねえ」
 皿を拭きながら、少女が言う。
「まあ、いつもこんなもんでしょう」
 店の軒先の陽だまりで日向ぼっこをする猫の背中を見ながら応える。

「珈琲、もう一杯もらってもいいですか」
「ああ、いいよ」
 誰のために温めてあるのかもうよく分からない白い陶器のカップに、なみなみと珈琲を注ぐ。
「ありがとうございます」
「うん」

 横を向き、カップに唇を付けた少女の伏せられた睫毛を見て、夜闇に見上げた木々の葉先を思う。
――不意に、さっき思い出そうとしていた花の名前を思い出す。

「ああ、木蓮だ」
「……え、何ですか?」
「いや、何でもない」
こちらを向き直った少女の視線を交わすように、私も目を伏せて珈琲を啜る。

――そうだ、白木蓮だ。
彼女の横顔、白い頬を見て思い出した花は。

(元我堂出版冊子『ランプ』第1号より再掲)
by pinngercyee | 2013-08-03 23:00 | 短編小説