【記憶】LIPHLICH 5th oneman 20130413 ②

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第2幕 時計仕掛けの晩餐

15分の休憩を挟み、再び壇上に現れた彼らは、先ほどまでの静けさを帯びた表情を払拭し
MANIC PIXIEの発売に伴う衣装で、華やかさと激しさを帯びて存在していました。
客席の暗転に背中を押されるように、彼らの登壇を待ちわびた客席が先ほどまでの抑圧をはじき返すように
いつも以上の熱を以って、彼らの登壇を迎えたように思います。

続けざまに演奏されたのは
『フェデリコ9』『夢見る星屑』『嫌いじゃないが好きではない』『It’s good day to anger』。
先ほどまでの静けさと対して、壇上の彼らの動くこと動くこと。
格好つける余地も必要すらもないと言うかのように、全くの衒いのない無邪気な熱を
素直に音楽に叩きつけるように演じられた曲の数々の輝くこと輝くこと。
そしてそれを飲み干すように、自ら全身で滝を浴びに行くように受ける客席全体をうずめるように覆う熱。
音楽に埋もれる空間として、とても、言葉にならないくらいの
結晶めいた素晴らしさがあったように思いました。

冷静さを保って見守ろうと思っていたはずなのに、理性などどこかへ掻き消されてしまうほど。
理性や冷静さなんて、この熱の中、このあまりに輝きに満ちた空間の中
全身を包む音楽と喜びの渦の中では、か細い紐でしかなく
常に手繰り寄せておかないと意識すらも、消し飛んでしまいそうな気がして
私は必死に神経を、耳と視覚に集中させるべく、自分を律しようとしました。
曲の合間合間で、観客の中で共有される振付があるのですが、それに従う余地もありません。
周囲に従い手や足を動かすことに意識を使うことよりも、私はこの場所に満ちた、今しか見ることの
できないものを、必死に見届けようとしていたように思います。
見ては、いたんです。必死に。沢山のことを感じたようにも思います。
その時に見た瞬間的な記憶としての、後になって断片として不意に浮かび上がってくる美しいイメージ。
それは、曲の側面を帯びた情景だったり、逸脱した存在感を示すギターのフレーズだったり
笑いあうメンバーたちの姿だったり、曲に溺れるようにする客席全体の熱だったり。
そしてそれら音楽と、空間全体を一体とする密度と、疾走感。
『フェデリコ9』で客席全体が右手を掲げ、飛び上がる瞬間の連なり。
強烈なうねりを伴う波に全身を飲まれる直前の記憶。
時にギラギラと強く光る艶のあるメロディラインと、
スポットライトの当たるような瞬間に胸を張って全てを担う新井さんのギターソロや
小気味良さを纏い、軽快に音楽を従える久我さんの歌の存在感。
扱いにくそうな太い太いフレットのベースを動物をあやす様に操る渉さんの安定した万能感。
一歩下がった場所で、全ての秩序を絶対性を帯びた説得力で線引き続ける丸山さんのドラム。
それら一つ一つをとっても、視線を釘付けにするのに十分な存在で在り続けながらも
それら全てが互いに作用し続けて、空間は一体となっているということ。
『夢見る星屑』の冒頭部、「馴染めません、この姿、きらきらしてて素敵でしょう」の節を歌いながら
スパンコールの縫いつけられキラキラと輝くジャケットをつまんで見せる、その久我さんの動作一つの説得力。
前回見たライブの折で「流星を模した」と例えた同曲の、低い場所で燻り揺れていたものが高みに登り
一つの光の筋を強く儚く描きながら疾走する様を見ているようなギターソロの存在感と言ったら。
『嫌いじゃないが好きではない』。
この曲のタイトルのシニカルさと相反する渾身の愛嬌を、私は強く愛していると思いました。
引っかけ問題のように素直に曲に従って飛び上がる客席と
突如差し挟まれる空白の悪ふざけにも似た愛に満ちた意地悪と。
そしてそれを、会場の空間全体として愛おしさに満ちている視線の共感と。
愛と信頼に満ちていると言わずして、私はこの空間でのこの曲でのひと時の時間を
何ていい表わせばいいのか、分かりません。
「チクタク」という囁きと、密やかな秒針を模した久我さんの指先に導かれる
『It’s a good day to anger』
正直、見ていることに必死で、記憶もあやふやになりつつありながら
息を止める緊張感で怒涛に飲まれていく全てを見守っていたように思います。
「目障りな五感を捨てたら」ふっと耳の中に残ったこのフレーズの色濃い存在感に
何かの示唆を受けたような気持ちになって立ち竦んだ記憶があります。

怒涛のような激しさを帯びた数曲の後、一転静かな曲調の『雨模様』が始まると
先ほどまでの空間を支配した狂乱にも似た熱は、静かに降り続く雨音に掻き消されてしまったようでした。
雨の日の情景を強く宿したこの曲の輪郭を、私は長いこと掴むことができなくて
以前書いた曲紹介でも敢えて抜かしてしまった曲だったのですが
この日、雨の日の湿度と重さを伴う音で、この曲が演奏されているのを聞き
初めて曲としての輪郭を認知することができたように思いました。

照明が落とされ、真っ暗になった壇上で、真っ白な光のスポットが床に落とされました。
その下で、伴奏のないアカペラで歌われる『ミズルミナス』のメインフレーズ。
熱と激しさと情報過多の渦の中にいた先ほどまでと対比される
シンプルさで壇上中央に示されたルミナス嬢の嘆きは、この日、一番美しい瞬間の一つであったと思います。
(この日、ライブ後に乗った高速バスの消灯後の暗闇の中で、幾度も浮かんできた断片の中
 一番印象が強かったのはこの情景でした。)
普段なら、例えばこれが別のライブを見に来ていたとしたら。
ああ、アカペラね、と軽く聞き流してしまっていたかもしれない場面でのこの説得力。
息を飲んで見守るしか、そして瞬きをするのも、他のことに意識を飛ばすことすらも
罪悪感を伴って勿体ないと思われる、幻のような寸時の間。
暗闇の中で白い光に浮かび上がらせられたのは、ルミナス嬢の存在と、その声そのものだったこと。
言葉や歌詞を超えた場所で、勁く滑らかに遠くへ伸びるその声の質感が
それまで意識したことのない声としての、楽器としての、素材としての美しさを湛えていることを
私はぽかんと口を開けて見守る他ありませんでした。
何かに似てる、と、目の前で消えてしまう前に、この声を記憶してしまいたいという一心で
私はルミナス嬢を見守りながら、暗闇の中に伸びてゆく久我さんの声を
何かに紐付けてしまいたい衝動に駆られていました。
――例えば、そう、真珠色。真珠の少し憂いのある白さ、あの表面のなめらかさと宿った光。
そのイメージは久我さんの声自体へ向けられた印象なのか
あの場所で存在したルミナス嬢の嘆きに対しての印象なのか
いまだに、着地することができていない部分でもあります。
あと、普段、男性の声を『綺麗』と感じることって、そんなにないのですが
この時の久我さんの声は神がかって『綺麗』でした。

伴奏が加わり、LIPHLICH曲の中でも、ジャズ色の強い軽快さの中に、自分を気高く誇りながら
叶わない恋に嘆く美女ルミナス嬢の心情を描いた『Ms. Luminous』の曲の全景が露わになります。
正直に言って、私、この曲はLIPHICH曲の中でも、とりわけ好き、というほどの印象は
ライブを見るまでなかったのです。
普段聴いていて、もっと印象の強い曲がいくつもある中で、この曲を演奏するところを見る度に
端正に情景を描き切る完成された音像が、そしてそれに含まれ、振りまかれる気配や音の一つ一つが
心の準備なく聴いていた観客の一人を有無を言わさず釘付けにする力を持っていたことに
毎度、驚かされるのです。
聴いているだけで、楽しくて楽しくて、体の中で持て余された力が、音楽の揺れに添って
左右に体内を転がり続けている、とでも言ったら伝わるでしょうか。
グルーヴだとか、そんな真ったいらの音楽用語めいた言葉は使いたくありません。
楽しくて勝手に体が揺れてしまって初めて気付く、自分の体内に持て余された力を転がして玩ぶ楽しみ。
この曲に関しては、(こんなことを言うのは、上から目線で本当に憚られるのですが敢えて言うと)
曲、音楽としての、完成度合いがめちゃくちゃ高いのではないかと思います。傑作という意味で。
そして、それを、私は、ライブで目の当たりにしなくては、気付くことができなかったのですけれども。
ライブに足を運ぶ度に、この曲を聴くことが、一つの楽しみになっていることも、強く感じます。

ルミナス嬢の嘆きが軽快な音楽に埋もれて消えてしまったかと思うと
壇上右手に立つギターの新井さん(タッキー)が「どうもー」と人懐こい笑顔で観客に呼びかける時間が訪れました。
それまで息を飲んで壇上を見上げていた会場内の空気が緩むのを感じます。
私は去年新井さんが加入した後のLIPHLICHしか見ていないので、何とも言えないのですが
彼が入ったことで、彼らの帯びる空気は無邪気に明るく強く朗らかになったんではないかなあと
見ていて感じます。
先ほどまで、激しくベースを弾き続けていたはずの渉さんは、演奏を止めた途端に、いつもの平静などこを見ているのか何を考えているのか分からない(彼は梟が好きだというのですが、私は渉さん自身が梟に似ているように思えて仕方がありません)姿を取り戻し、新井さんの問いかけに「ああ」とか「うん」とか「まあね」とか、言葉少なに答えているのが面白かったです。
談笑する二人(主に新井さん)の背後で、先ほどまで中央に立っていた久我さんは、水を飲んで座り込んでいる様子でした。
前半は黙って二人の掛け合いを見ていた久我さんが、珍しく腰を浮かし
「ちょっといい?」と言うように前方に入ってきます。
演奏中の緊張感とはうって変わって、全く気負いのない表情で
「今日の映画の企画の準備、本当に大変だったんですよ。あのリッチーリッチマンの声は僕なんですよ」と告白。
一瞬、会場内が固まったように思いました。
「会得するのに3時間くらいかかって」
そんなこと言われたら、聴きたいし見たいし「聞きたーい!」と考える前に叫んでしまいました。
会場内そこここから上がる「聞きたーい」「やってー」の声に、久我さんは楽しさを抑えきれない様子で壇上をぐるぐる歩きながら
「えー。『……私、リッチー・リッチマンがお送りいたします』」
とまさかのエフェクトなしの地声が響きます。思わずマイクを抱える久我さんを二度見してしまいました。
(まじか。というか、あれだけ作りこんだ演出の内幕を、やった当日のうちにばらしていいのか?!)
私の内心の動揺に関わらず、当日のうちに内幕をばらすことは全く今日の第一部の完成度を損ねるものではないという風で、壇上で心から楽しそうに笑いあう彼らは、第一部のストイックなまでの完成形を作り上げたことと、現在の第二部でのライブを行っていることは、全く以って潔く、別の次元のものであると考えている様子に見えました。
そういえば先ほども「沢山の人に協力してもらって、本当に大変だった」ということを無邪気に話してしたことを思います。
東京の音楽シーンを支える老舗のライブハウスの床に、投影幕をを固定するために釘を打たせてもらう提案に感動したこと、多くのスタッフの人が本気で関わって支えてくれていたことを、この日も、後日のブログでも感謝していたことを重ねて思います。
第一部が完璧に完成でき納得がいったからこそ、第二部で、これだけ無邪気に、これだけ全力で飾り気なく率直に楽しみ、音楽と戯れることができていたのかもしれないとか、そんなことを考えました。
彼らのその潔さと無邪気さに、締め付けられる思いがします。

談笑する彼らの背後、一歩引かれた場所に置かれたドラムセットに位置する丸山さんのソロが始まります。
普段、彼らが曲を演奏している中で、描く世界をサーカスのテント内の出来事に例えると
そのテント自体の屋台骨というのは、明確に時に強く、時に慎ましく、秩序を線引き続けている丸山さんのドラムの音の存在に他ならないかもしれません。揺らがないこと。倫理や秩序といった明快にするべき前提を、丸山さんのドラムは軽やかに、重厚に、楽しそうに、線引いているということを、今更のように実感します。
そこから続いた『グルグル自慰行為』、暗いガーデンで篝火を焚く少年の幻と、目の眩むような強い光と音楽の応酬。
扇動者である「アジテーター」とは誰のことを指すのでしょう。
そして怒涛の勢いが一切緩められないまま、雪崩れ込むように『グロリアバンブー』の淫靡な裏通りの深夜の密室へ。
「ジー ア グローリア ビー ビーッ バンブー オーイエス!」
音源中、コケティッシュな女の子たちの声で歌われるコーラスを客席に求めた後、背骨までもが蛇のように波打つ感触の大きなうねりの渦中、ギラついた光を纏う幻が展開されていきます。
そういえば、私はこの曲を、音源を購入後、アコースティックではなくライブでちゃんと聴くのが初めてで
ずっと聴きたいと思っていた分、この日、聴くことができたことがとても嬉しかったことを覚えています。
そして続くのは、『MANIC PIXIE』。
アコースティックでは数度聴くことができた(これに関しても相当度肝を抜かれました)けど
曲の全体を把握した後に、ライブでちゃんと見渡す様に聴くことができたのは、この曲も初めてです。
前回は「トリッキーだなー、情報量多いなー、展開速いなー、」と傍観するように眺め
途中から溺れるように聴いてしまい、細部に関して全く覚えていないという聴き方しかできなかったこの曲を
把握した上で聴いてみると、想像していた以上に、とても楽しかったことが印象に強いです。
ライブで曲を聴いて、こんなに楽しいことが不自然に思えるくらい。
一聴してトリッキーな難しい曲、として興味を失ってしまわず
曲を把握して、ここでこれほどに楽しむことができている現在に、ここ数カ月の自分を褒めてやりたいくらいの気持ちが湧きました。

否応なく体温の上がる三曲を経て、「次が、本編最後の曲です」と紹介されたのは、『古代に捧ぐ』でした。
その前にあった告知と、このライブの企みの楽しさと大変さと、不安さと、多くのものを巻き込みながら今日を迎えたという話。
「自分たちのやりたいことと、楽しんでもらえることを擦り合わせて形にしてみて、大変なことも多いのですが、不安もある中、今日をこうやって迎えられたこと、多くの人に来て喜んでもらえたことが
泣きそうになるくらい嬉しい」
そう言って頷く彼らは、誰に対してよりも、彼ら自身の倫理に対して、誠実であろうとしているということを強く感じました。

「最後にファンの人のためだけに、書いた曲『古代に捧ぐ』を聴いてください」
そう言って始められた前奏の上には、この日一番に明るい照明が降り注いでいました。
音源で聴きなれている形よりも、この日の演奏は、ドラムの輪郭が強く、白く降り注ぐ照明の色と有機的に柔らかく鳴るギターの音が合わさって、月夜に照らされた無人の岩山の情景を思いました。李白の詩のような清らかな優しさに満ちた情景。
甘く遠い郷愁が一帯を柔らかく染め、恒久に通じる清らかさと凛とした存在を、黙って見守っている月夜のような曲。
以前のライブで『航海の詩』に向けて感じたような、LIPHLICHの姿勢自体を司る標のような曲なのだなと、改めて感じました。

「アンコールで重大発表みたいなやりがちなことは一切ないので、安心して暴れてください。ここからは乱痴気騒ぎだ!」
と壇上に再び現れた久我さんが叫んだ後、アンコールの一曲目は『My Name Was』。
見ているだけで、降り注いでくる音を必死で受けとめてなぞっているだけで精一杯で、もう記憶がないです。
時折で、ゆるやかさの差し挟まれる瞬間に我に返りそうになり、でもその隙を与えず、再開される怒涛の波。
本当に、気持が良かったです。雑念や思考の入る隙間が一切ないの。
集中が途切れる余地のない純粋な楽しみ。
50メートル全力で走って、周囲の音が聞こえなくなる時の感覚と近いものを感じました。

そして続いたこの日二度目の『グロリアバンブー』。
先ほどよりも執拗に「最初の女の子のコーラス、言わないと今日返さないから!」と観客を煽りつつ
冒頭のコーラスを客席を含みながら幾度も繰り返した後に、入った本編の、先ほどより更に増した絢爛さ。
もう訳が分からなくなりながら、ひたすら楽しいとだけ感じつつ、目の前の視界が星を塗したように
キラキラして見えました。
そして、最後の曲、この日二度目の『MANIC PIXIE』。
半分気が遠くなりながら、壇上と空間全体を同じ色で包む熱と喧騒を、視点の定まらないままで幾度か眺めた時に、居る人たち一人残らずが、一切の雑念の入らない「今、この場所、この時」というものだけに溺れているように見えました。
何て美しい景色だろう、ということを感じたのは、この時が一番強かったと思います。
何が美しいって、あの場の隅々までが、音楽と愛と熱を帯びた一色に、理性を失い溺れていたこと。
そんな情景って、生きている中ででも、なかなか見ることはかなわないものではないかしら、と後になって思いました。



終演後、客席に照明が付き、私は22時に新宿駅でゆきめちゃんと待ち合わせている現実を思い出しました。
「え、今って何時?!」
と青くなって時刻を見ると、21時を幾分過ぎた時刻で胸を撫で下ろした覚えが強烈にあります。
もし、あの時、時刻が22時を既に回っていたとしても、私は、ゆきめちゃんに申し訳ない気持ちを
抱きながらも、この公演を、途中で切り上げるという選択はなかったように思いました。

この日、素晴らしい公演を見たこと。
それはきっと、私にとって、ずっと消えない記憶になると思います。
高校生の私が、自分が見られなかったコンサートのビデオを見て、あの会場に居る全ての人に嫉妬と羨望を
感じ、あの場所に、どんなに悪い席でも同席できた人は、どんな人であろうと私よりも幸せな人だと
強く感じた記憶を思います。
私が上記に書いたこの日の記憶に関して、大げさな部分は一つもありません。
私は、自分が見たもの、感じたことを、そのまま誠実に言葉に移し替えただけのことです。
この文章を読んで、半信半疑ながら、少しでもあの場所へ同席してみたかったという気持ちを感じた人には
これからも、想像を絶するだろう密度で空間を染めていくだろうLIPHLICHを見守っていくことを
お薦めします。

そう、言えることは、私自身がLIPHLICHを全面的に信頼しているということなんだろうな、と
ここまで書いて思いました。
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by pinngercyee | 2013-04-16 11:00 | 音楽