【記憶】LIPHLICH 5th oneman 20130413 ①

目眩めく怒涛の大阪行脚の直前に、私は、言葉にならないくらい、美しいものを、見たのです。
多くの人に会ったりだとか、旅行の緊張や、睡眠不足や、興奮や、そんな色んな記憶の強烈な上塗りを経て
言葉に置き換えられないまま、途切れ途切れになってしまいつつも、その記憶について
私は、文章を書かなくてはいけないと、強く感じています。

あの日、私が見たもの。
言葉にならないくらい。無意識に目を奪われてしまうくらい。
そして暗闇の中に舞い踊る断片が、一晩中、私の瞼の裏を去らないくらい。
私が見たものを、文章に、形に、記憶に、そして誰かに伝えられる状態に、してしまわなくちゃいけないと
じゃないと、私、何のために、文章を書くことを志したのか分からないって思うほど。
そして、私自身、きっと十年、二十年の時間を経た後に、必ず思い出すだろう記憶である半面で
その時、その場にいた自分に嫉妬を覚え、その場にいた自分に誇りを感じるだろう一夜でした。

シンプルな意味での『美しいもの』は、率直に言って、そのあたりに転がっています。
見つけることも、共感を得ることも、難しいことではありません。
しかし、目を見張るほどの、尋常じゃない『美しいもの』を見た時にこそ
人はそれを他者に伝えなければいけないという、使命感に駆られるのだと思います。
誰も見たことのないもの。誰も実感したことのない、信じられないほどの絶対的な美しいもの。
それを、人に伝えることができる形に、それを描くことができる武器を私が持っているとするなら
それを、間違いのない、見た通りの美しさを損なわないように、記憶してしまえる道具を使えるなら
他者が、どれほどの不信を抱いていたとしても、私はそれを「正しく伝える」努力を惜しむつもりはありません。

実際の何分の一になってしまっていたとしても
「素晴らしいものが存在した」ということを実感を込めて人に伝わる証にできるということは
私自身が、「素晴らしいものを見ることができた」という経験に対しての
感謝を示す唯一の、最も誠実な手段であるように思うのです。




前置きが長くなりました。
先述の大阪行脚日記に記載した通り、あの日、私は高速バスの発車を一時間半後に控えた時間まで
目黒でLIPHLICHのライブを見ていたのです。

これが、通常の、例えば他のバンドとのイベントライブであったとしたならば
私は恐らく、自分にとっての大きすぎる課題『大阪文学フリマ』を優先して、目を瞑っていたと思います。
しかし、この日。
最初は「大阪での文学フリマ前夜だから仕方ない」と理性によって諦めようと線引いていたこのライブを
どうしても見ておきたい気持ちが、日が迫るほどに強くなってきて
私は、同行のゆきめちゃんに小声で相談を持ちかけることになったのでした。

「【LIPHLICH 5th ONE MAN LIVE】
2013年4月13日(土) 目黒鹿鳴館
marder suitcase presents
CONCEPTUAL ONE MAN 『時計仕掛けの晩餐.第2夜』
目黒鹿鳴館をオールドムービーシアターに…。
特設されたスクリーンに映写機の光で作り上げられるステージ。
パブリックドメインとなった映画やアニメーション等々をバックに奏でられる楽
曲達が時にコミカルに、時にシリアスに、時にホラーに、時に美しく彩られます。」

そう題された告知は、もう数ヶ月前からなされていたものでした。
前回の仮面必須ライブに続く、Conceptual one man第2夜は、映画をテーマにしたものであること。
そうとは知っていたものの、実際に何がどうなって、映画をテーマにライブをするというのか
全く想像が付いていないというのが、実際のところでした。
きっと、私以外の来場者も、あの試みを正しく予測できていた人はいないのではないかと思います。
大阪文学フリマの日が迫り、私は自身の作家としての新刊の入稿やチラシの作製に追われている中で
「映画をテーマにしたこの日限りの」という煽り文句が額のあたりで渦を巻くのを感じていたのでした。



諦めるつもりでいたので、前売りのチケットは買っていませんでした。
並んだ数百人の入場列の最後尾に並び、当日券を買って
後ろのほうでいいから、ステージ上が全て見渡せる場所を見つけて、せめて展開を見届けようと思い
新宿駅のロッカーに荷物を詰めて、身軽になった私は目黒へ向かいました。
小さな鞄には、財布と煙草と携帯と、あと、いつもは持ち歩かない眼鏡を入れていました。



第1幕 マッド・シネマ・パラダイス

開演予定時刻を15分過ぎて、静かに古いシャンソンが流れ、客席のざわめきが波のようにたゆたう中で
突如、会場を薄明るく照らしていた照明が落ちた不意の瞬間を、息が止まる思いで迎えました。
幕が下ろされたままのステージに、それまで映し出されていたこの日の日付と掲題が失われ
まるで本当の映画の上映が始まるように、アナウンスを伴った黒い背景に
白い歯を覗かせた赤い唇の映像が映し出されます。

幕は、以前閉じられたまま。

その奥では、楽器を持つ気配と、それを示す楽曲の導入部が宣誓されるように
演奏を始めるのが感じられました。

一曲目は『リフリッチがやってくる』

乾いた白黒の色調で映し出されている映像は、クラシック映画と呼ばれる年代の映画のものでした。
石造りの上空の空いたコロセウムに、馬車が次々と入場して行きます。
「もしかして、第一部って、このまま幕を開けずに投影映像だけを見せてやるつもりか?」と
会場全体に薄い不安が立ち込めた直後のタイミングで、幕は高らかに開かれました。

「サーカスがやってくる」
言葉裏腹に、ようやく壇上に示された彼らの存在は、サーカスの言葉が帯びる華やかさの対極のような
徹底したシックさを帯びて、投影の画像を受けとめながら、微動だにせず演奏を続けていました。
白黒映画の投影の下、彼らの身に纏う服も、全員が細身の黒いスーツで、髪型や化粧に至るまで
余計な装飾のない、それどころか、表情や動作すら禁じられたように慎み封じる彼らの姿は
まるで、映画がかつて音を帯びていなかった頃、活動弁士を率いて上映していた当時、
映像の傍らに控えて演奏を続けていた伴奏楽団員の人たちのように見えました。

『僕らの使い捨て音楽』
続いて演奏されたものは、まさかの激しさを帯びたシニカルな選曲で、思わず自分の耳を疑いました。
「星屑の木箱 中身は何でしょう? 価値も分からない奴が値札付ける」
「逆らう者には花束をあげよう、従う者には紙とペンをあげよう」
軽快に波打つ音楽を映画の画面を背景に浴びながら、やはり微動だにしない楽器の三人に遠慮をするように
しかしじわりと音楽に飲まれるように、波打つ音楽の力を体内で転がすように
観客たちが音楽に従い始めるのが感じられました。

『映画』に焦点を当てたこの催しの中で、私はこの曲を聴くことができたことが嬉しく思われていました。
以前、久我さんに質問した折に否定されたことなので、違うとのことだったのですが
やはり、私はこの歌の「逆らう者には花束をあげよう」の一節が、映画の中のイタリアンマフィアの儀礼
(敵に花束を贈り、友好を示しながら笑顔で暗殺するというもの)をどうしても思い出させてしまう
特に映画的な印象のある一曲だからなのです。
そして、この曲の激しさに目を奪われ、それを従えるように壇上で動く久我さんの姿に目を奪われ
この曲の間、投影されていた映像の内容を、どうしても思い出すことができないでいることに気付きました。

今回のこの試みで、何が特筆すべき事柄なのかと言うと
ただ古い映画を投影しながら演奏を行うというだけでなく、楽曲の収束する瞬間に合わせ
映像が収束するよう、完全にタイミングが揃えられているという点が目覚ましいと感じました。
演奏の収束と同時に切り替わり、曲間に投影される画面は
『MOVING TO THE NEW LOCATION』と表示されていました。

リッチー・リッチマンの『映画って本当に素晴らしいですね』
壇上に映し出されたのは、白髪できちんとスーツを着た老齢の紳士でした。
しかし彼は風体に不似合いな、小さな戸棚の隙間に横たわって頬杖をつく体勢をとりながら
優雅な口調で、呆気にとられている観衆へ緩やかに話しかけます。
淀川長治の口調に重ねられているだろうその司会者ぶりに
観客は暗闇の中、ただリッチマン氏の姿を黙って見守るばかりでした。

女性に関する二本の作品、とリッチマン氏の案内に従って演奏されたのは
『メリーが嫌う午後の鐘』
『月を食べたらおやすみよ』の二曲。
メリーに関しては、曲から受けた私的な印象では、もっと幼い少女をイメージしていたのが
投影で映し出されたのは、馬車に乗るドレス姿の美しい女性の姿でした。
風と共に去りぬのスカーレットオハラを演じたビビアンリーを思わせる美しい女性に
楽曲内で、午後の鐘に怯えるメリーの少女のような恐れは、大人になっても胸の中に息づくものなのかもしれないということを、私は映像を見ながら思った憶えがあります。
月を食べたらおやすみよ、は『ミズルミナス』と対になる男性視点でルミナス嬢を見守る歌ですが
この歌が演奏される上に投影されたのは、ルミナス嬢と対極に思える修道女のような清らかな女性でした。
モノトーンの映像の中、白い透けるような頬をして静かに遠くを見る女性は
清らかさを信じながらルミナス嬢へ向けられた男性の視野であるのかもしれないと感じて
大変面白かったです。

それにしても、壇上で楽器を支えるメンバーたちの動かないこと。
飾り気なく整えられた髪型と服装で、笑いもせず表情すら動かさず演奏を続ける彼らの姿は、彼らが本来
とても端正な作りの青年たちであることを、映像の光と影の合間に浮かび上げていたように思います。

リッチー・リッチマンの『女性の想いって本当に色々ありますね』
メリーとルミナス嬢、抱いていたイメージを映像により裏切られたのではなく
彼女たちの中に在る見えなかった側面を照らし出されたという一幕を経て演奏が終わり
緊張の糸が緩むのを感じると、壇上には、再び先ほどのリッチマン氏が登場していました。
観客を煙に巻くかのような氏の語り口調の中で、次の曲として示されたのは『Pink Parade Picture』でした。

『Pink Parade Picture』
急激な転落を思わせる導入部に始まるLIPHLICHの楽曲の中でもコケティッシュな印象の強いこの曲の
上から投影されたのは、セルで書かれた白黒の古いアニメーション作品でした。
あまりにポップでメジャリティな存在(ベティブープ)に、思わず(版権とか大丈夫なのか)と
内心狼狽えてしまいました。
画面に映るのは、歌詞に倣った通りの行列。
見覚えのあるキャラクターが動きだけで観客を見せる力のある往年のアニメーションの技術を思いました。

基本的に投影以外の照明のない暗さの中で立ち尽くし演奏する楽器たちと
その手前で一人、軽やかに映像の光の中で歌い、ゆらゆらと動きながら全体を統べる久我さんの印象が残ります。
あ、あと、すごいなと思ったのが、メンバー誰一人として今、何が後ろに投影されているのか、一回も確認しなかったこと。
曲の間の転換時間や、曲の収束に映像がぴたりと合っていることすらも、一度も振り返って確かめなかったこと。
あれだけ凝った芸当を数百人の観客の前で堂々とやりながら、一度も壇上で不安な態度を見せなかったのが個人的に、すごいなーと思いました。
エンターテイナーというか、プロフェッショナルというか、覚悟というか。

リッチー・リッチマンの『何度でも味わいたいならまたおいで』
場面転換の数秒間をはさみ、リッチマン氏の「最後の登場」となりました。
リッチマン氏の「人生を変えた忘れられない一本です」と示されたのは『淫火』。
LIPHLICH曲の中でも、映画的映像色の強い一曲が選ばれたことに納得を感じつつ
この曲の抱く烈しさを、微動だにせぬ壇上でどのように示して見せるのかということが楽しみに思われました。

何ていうんでしょう、これだけ映像の引用があれば、私も古い映画を見ていないほうではないので
一つくらい、引用元を特定できるんじゃないかなと思っていたのですが
情けないことに一つもできなかったので確かなことは何も言えないのですが。
『淫火』に被せられて投影された映像を見ていて、『肉体の門』だとか『ソドムの市』だとか
そんな言葉が思い出される思いがしたことを覚えています。多分というか違うんだけど。
あ、あとあれも思い出しました。フリッツラングの『メトロポリス』の地下に暮らす労働者の群衆が
崩壊を恐れて逃げ惑う群舞のシーン。
そんな映像を背景に、前面でゆらゆらと動く久我さんの存在感が美しいこと。
マイクをコードで持ち上げて果物に模したかと思うと、横に持ち笛のように模したりという動作が
映像の光の隙間隙間に現れてくるのが、やはり前回も書いたとおり
落語家の用いる憑依的な体現をする優れた役者であるように感じられたことを、憶えています。

【第2幕へ続く】
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by pinngercyee | 2013-04-16 12:00 | 音楽