榎倉冴香作品展「 eyes and glasses」を見て
友人の画家、榎倉冴香ちゃんの個展に行ってきました。
会場は、清澄白河駅から、清澄庭園・清澄公園を通り過ぎた向こう側、SPROUT curationにて。
二月の土曜日の昼下がり、清澄公園は美しい場所でした。
この「倉庫のような」ではなく、「本物の倉庫の」建物の入り口を、看板を頼りにくぐって
歩を進めると、倉庫ようのエレベータの前に出ます。
6階に進むと、そこは倉庫建物の中であるはずなのに
白壁のギャラリーの並ぶその階を見回しただけでは
きっと倉庫の中であるという事実すら忘れてしまうように思われました。
正直に告白してしまうと、私は現代美術と言われるものに、相当の懐疑心を抱いています。
奇を衒い、言葉によって分解されることを拒むあまり、言葉や分析から逃げるための手段が
分析を拒む奇抜さとしての分野になったのではないかと感じているし
少なくとも、共感は抱いていません。
でも、彼女の作品は、素直に見ることが出来るのです。
淡い色で柔らかくなぞられる彼女の筆致には、悪意も懐疑心も立ち入る隙間もないほどに
彼女の抱くものを誠実に写し取っていることが感じられるからかもしれません。
彼女が何を思い、どういったものを描こうとしているのかということを
私は、作品から正確に把握できているとは言えないと思います。
ただ、そこに表出される色合いの淡さ、輪郭の儚さや、
暗喩的に用いられる物質の言葉のない問いかけは、その作品の前に立つ私自身の
倫理観や常識といった無意識の物差しを、自覚させられる性質のものであるように感じるのです。
鏡面に書かれた模様の前に立ち、その模様を透かした向こう側に映る自分の姿を見ようとして
視界に白く紗がかかったように感じられたこと。
インビテーションの紹介文にあった『弱視』というモチーフを再現するための装置としての鏡、
なのかしらと、私がその視界を覗き込んでいると、傍らに立った冴香ちゃんに
「それね、鏡に絵を描いているのに、みんな、作品じゃなく自分の顔を見ようとするの。」
と声をかけられました。
*
会場を出て、近くにあったカフェ『ポートマンズカフェ』に立ち寄った後も、私はしばらく
彼女のその言葉について考え続けていたように思います。
素材を選び、筆を持ち、作品を作る彼女の、作為と、無意識と、誠実さのこと。
作品の前に立ち、それを誠実に、はたまた作為を包括しようと挑むような気持ちで眺める側の
はたまた作品の内包する意図を汲むことに情熱を傾けようとしがちな受け身側の
その意図の応戦は、彼女の言葉一つで、総て丸めて放り投げられたように感じます。
作品を見ること。
それに含まれる意図を信頼すること。試すこと。試されること。
現代美術というものに対して、懐疑的すぎた姿勢を、窘められてしまったのが
冴香ちゃんの作品であって良かったと、私は感じていました。
*
ポートマンズカフェは、アメリカの匂いのする古い道具が多く飾られた居心地の良い場所でした。
カルボナーラは、生クリームとベーコンとチーズでシンプルに丁寧に作られた味がして
アイスクリームを添えられたダークチェリーのパイは、いつかツインピークスの中で
クーパー氏が幸せそうに頬張っていたそれを思わせる一品でした。
*
冴香ちゃん、こと榎倉冴香の作品展は、同会場で3月2日、来週の土曜日まで。
東京駅前丸ビルのアッシュペー・フランスにて、同期日にて
「あなたに会わなくなってから Since we last met」展を開催しているそうです。
会場は、清澄白河駅から、清澄庭園・清澄公園を通り過ぎた向こう側、SPROUT curationにて。
二月の土曜日の昼下がり、清澄公園は美しい場所でした。
この「倉庫のような」ではなく、「本物の倉庫の」建物の入り口を、看板を頼りにくぐって
歩を進めると、倉庫ようのエレベータの前に出ます。
6階に進むと、そこは倉庫建物の中であるはずなのに
白壁のギャラリーの並ぶその階を見回しただけでは
きっと倉庫の中であるという事実すら忘れてしまうように思われました。
正直に告白してしまうと、私は現代美術と言われるものに、相当の懐疑心を抱いています。
奇を衒い、言葉によって分解されることを拒むあまり、言葉や分析から逃げるための手段が
分析を拒む奇抜さとしての分野になったのではないかと感じているし
少なくとも、共感は抱いていません。
でも、彼女の作品は、素直に見ることが出来るのです。
淡い色で柔らかくなぞられる彼女の筆致には、悪意も懐疑心も立ち入る隙間もないほどに
彼女の抱くものを誠実に写し取っていることが感じられるからかもしれません。
彼女が何を思い、どういったものを描こうとしているのかということを
私は、作品から正確に把握できているとは言えないと思います。
ただ、そこに表出される色合いの淡さ、輪郭の儚さや、
暗喩的に用いられる物質の言葉のない問いかけは、その作品の前に立つ私自身の
倫理観や常識といった無意識の物差しを、自覚させられる性質のものであるように感じるのです。
鏡面に書かれた模様の前に立ち、その模様を透かした向こう側に映る自分の姿を見ようとして
視界に白く紗がかかったように感じられたこと。
インビテーションの紹介文にあった『弱視』というモチーフを再現するための装置としての鏡、
なのかしらと、私がその視界を覗き込んでいると、傍らに立った冴香ちゃんに
「それね、鏡に絵を描いているのに、みんな、作品じゃなく自分の顔を見ようとするの。」
と声をかけられました。
*
会場を出て、近くにあったカフェ『ポートマンズカフェ』に立ち寄った後も、私はしばらく
彼女のその言葉について考え続けていたように思います。
素材を選び、筆を持ち、作品を作る彼女の、作為と、無意識と、誠実さのこと。
作品の前に立ち、それを誠実に、はたまた作為を包括しようと挑むような気持ちで眺める側の
はたまた作品の内包する意図を汲むことに情熱を傾けようとしがちな受け身側の
その意図の応戦は、彼女の言葉一つで、総て丸めて放り投げられたように感じます。
作品を見ること。
それに含まれる意図を信頼すること。試すこと。試されること。
現代美術というものに対して、懐疑的すぎた姿勢を、窘められてしまったのが
冴香ちゃんの作品であって良かったと、私は感じていました。
*
ポートマンズカフェは、アメリカの匂いのする古い道具が多く飾られた居心地の良い場所でした。
カルボナーラは、生クリームとベーコンとチーズでシンプルに丁寧に作られた味がして
アイスクリームを添えられたダークチェリーのパイは、いつかツインピークスの中で
クーパー氏が幸せそうに頬張っていたそれを思わせる一品でした。
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冴香ちゃん、こと榎倉冴香の作品展は、同会場で3月2日、来週の土曜日まで。
東京駅前丸ビルのアッシュペー・フランスにて、同期日にて
「あなたに会わなくなってから Since we last met」展を開催しているそうです。
by pinngercyee
| 2013-02-25 01:09
| 日々