『イーハトーヴォ物語』について

小樽文学館の学芸員の方が、小樽文学館内で『ゲームと文学』展を企画するにあたって
『イーハトーヴォ物語』について言及していたので、懐かしくて居ても立ってもいられず
思い出してみようと思います。



『イーハトーヴォ物語』は、1993年発売のスーパーファミコンのソフトです。
RPG、と言われるその内容は、宮澤賢治の作品をモチーフにしたもので
RPGと言われつつも、ファイナルファンタジーやドラゴンクエストのような、敵も味方も
戦闘もボスキャラも、レベルアップの概念さえもありません。
宮澤賢治の物語に沿って街を歩き、人を訪ねて話し、アイテムを持っていくと
物語が展開して、一章が終わります。
それを章ごとに繰り返すだけの内容です。
ゲーム性を求める子供達には人気がでなかったのも仕方ないとは思うのですが
私は、このゲームの中の世界を歩いてみて、人と話をして見えた世界というものを
もう20年近く経つというのに忘れることが出来ません。

主人公の『私』は賢治先生を訪ね、『イーハトーヴォ』という街を訪れます。
『イーハトーヴォ』という言葉自体、宮澤賢治が岩手を指して呼んだエスペラント語ですが
それを弁えて見ても、この街は賢治の作った架空の物語を含む世界、というように見えます。

『イーハトーヴォ』の街の中、住人は静かに暮らします。
鉄道駅の前にある木製の信号機シグナレスは、鉄製の新式であるシグナルに対しての
言い出せない恋を主人公に向かって打ち明けるし
街の北にある『猫の事務所』では、猫たちが帳簿に向かって働いています。
人々は子供を育て、学校で子供は学び、劇場では活動写真が上映されています。

賢治先生に会うことのできなかった主人公は、羅須地人協会で指示された通りに
頼まれごとを引き受けます。
「賢治先生のなくした手帳を、探してきてほしい」
何のヒントもないままに、街の中の人たちの会話に耳を傾けていると聞こえてくる噂話に
『イーハトーヴォ市街』から外れた場所のことが浮かび上がります。

第一話:貝の火

第二話:カイロ団長

第三話:虔十公園林

第四話:土神と狐

第五話:グスコーブドリの伝記

第六話:オツベルと象

第七話:セロ弾きのゴーシュ

第八話:雪渡り

最終話:銀河鉄道の夜



中学生だった私は当時、お恥ずかしながら、このゲームを通して宮澤賢治の世界を知りました。
そしてこのゲームで取り上げられている物語の本来の姿を知りたくて、賢治全集に手を伸ばしました。
取り上げられている物語。単語としてのみ登場している物語。
名前だけ知っていた物語。全集に手を伸ばして初めて名前を聞いた物語。
メジャーなものもマイナーなものもありますが、私はこの作品を通じて
忘れえない情景を(ある意味トラウマのように感情を伴って)旅することが出来ました。
その経験があって、本当に良かったと思っています。
宮澤賢治を読んでいなければ、この世界の情景を知らないまま大人になっていたとしたら
私はきっと、今の私ではなかったのではないかしら、とも思います。

雪渡りの中の、狐たちの幻燈会。
土神と狐の中の、土神の劣等感と、狐の虚栄心。
やっと会うことのできた賢治先生と、銀河鉄道に乗り込む前に暗闇を歩く情景の恐ろしさ。
それらの記憶を伴う情景を、私はおそらく一生抱いて生きていくのだと思います。



それぞれの物語の傍らで、『イーハトーヴォ市街』で鳴っている音楽がこちら。


街の中を歩いて、見る景色。人と話をして感じること。
猫の事務所の中でいじめられている窯猫を助けてあげられないこと。
シグナルとシグナレスの真っ直ぐな恋がすれ違うこと。
そんなことを見守りながら、黙々と街の中を歩く『私』が物語の結末へ尽力すること。

それぞれの物語で出会う人物や、彼らにとっての大切なものを垣間見て
『私』が何を思うのか、という部分までは、ゲームの中で言及されません。
本という媒体ではなく、ゲームという媒体で文学・物語というものと関わろうとしたのだろう
製作者の方の潔癖な意識を思わされると同時に、
普段は夢見てみても叶わない、物語の中を自分の足で歩くということが
仮想的にでも叶うということの特別さを大人になった今、改めて尊く思います。



余談ですが、このゲームは当時あまり売れなかったそうなのですが
ゲームソフト発売から8年後の2002年に、ゲーム音楽のサントラCDのみが新発売されています。
このゲームの音楽を忘れられない人が多かったということにも納得がいきます。
私もサントラが発売されていたことを知って驚き、買ったうちの一人です。

作曲者の方のピアノ版もむちゃくちゃ良いです。

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by pinngercyee | 2012-07-16 16:54 | 記憶