贅沢な休日

京都で初めての一人暮らしを始めたころの私にとっての贅沢は
何の予定もないぽっかりとした休日に、一乗寺にある書店『恵文社』に行くことでした。



昼前に起きだして、洗濯をし、布団を干して、簡単な朝食を食べて
自分にとって特別な場所へ赴くために、礼儀正しく上品な可愛い服を選ぶこと。
素敵な休日を過ごすためには、素敵な日に相応しい素敵な洋服を選ぶことが、
最低限必要な条件だと、現在よりも強く、当時の私は信じていました。

学校には着て行かない特別なワンピースを着て
普段は履かない革の靴を出して
出町柳から、叡山電車で二つ駅を越した一乗寺に向かいます。

駅員の居ない一乗寺の駅を出て右手に暫く歩くと『恵文社』があります。



東京からも新幹線に乗って行く人がいるだとか
本を出版したりだとか
雑誌に取り上げられたりだとか
近年は、東京に住んでいても耳にすることがある『恵文社』は
当時、まだ地元の美大生や芸術系の学生が主に集う
知る人ぞ知るというような場所だったような気がします。

ガラスの嵌め込まれた木製の扉を押し開けると、一瞬で空気の質が変わるのが感じられます。

どんなに見回して見ても日常の世界である扉の外と、密やかな時間が静かに沈殿するような内側。
一歩足を進めるごとに、木張りの床が「キッ」と高くかすかな音を立てます。
展示されている美術品のように、そこでは本の一冊までもが、その場所に存在する
その理由を与えられていると、静かに強く感じることができます。
普通の本屋の軒先に並ぶ、アルバイト店員の媚笑にも似た気安さの表情と比べて
恵文社に並ぶ本は、一冊残らずそれぞれが己に誇りを持っているように見えました。

小さく澄んだ音で音楽の流れる店内を、息を潜めて、足音を立てないよう気を付けながら
静かに見回して歩きます。

初めて目の合った本。
私の手が伸ばされることを運命付けられているような、特別な一冊。
サラサラと微かな音を立てる万華鏡。
なめらかで薄い紙で仕立てられた小さな手帳。
セーヌの青と名付けられたインクの色をした便箋。
掌に収まってしまう小さな宇宙のような銅版画。
小さな橄欖石の首飾り。
昔の詩集。

月に一度だけ、私は「恵文社で欲しいものを全部買ってもいい日」というのを作っていました。
とは言っても、高価なものは買えません。
丁寧に店内を歩いて回って集めた、宝物のような上記の品々を買ってもいいという日でした。
それがどれほど特別に、贅沢で幸せなことだったか。
一年前まで、アルバイトもさせてもらえず、欲しいものを諦めるばかりの高校生だった時分からは
想像も付かないほどの、贅沢なことでした。



会計を済ませ、両手にすっぽり収まる大きさの紙袋に宝物が収められた後は
それを静かに楽しむ場所へ向かうのです。
適当なお店や、煩雑な場所、日常の匂いのする場所ではいけません。
宝物を広げて、ひとつずつ確かめるための場所に赴かなければいけません。



今はもう無くなってしまったのですが、当時百万遍を下った場所にある日仏会館の一階に
藤田嗣治の絵のある喫茶室がありました。
庭には噴水があって、それを取り囲む木々は秋には葉を散らせて
その下のテラスに出されたテーブルで、お茶を頂くことができました。
煮詰められた林檎のタルトを頂きながら、秋の日の昼下がりに
買ったばかりの包みを解き、私のものになった美しい物たちをひとつひとつ確かめる時間が
私の知っている中で、一番の贅沢ではないかと、思います。
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by pinngercyee | 2011-08-17 23:15 | 京都