少女の横顔を買った話

「変哲のないマンションの一室に、靴を脱いで上がる不思議な本屋がある」

その話を、最初に知ったのは、もうどのくらい前になるのか思い出すこともできません。
誰かから聞いたものだったか。
雑誌の記事で見かけたのだったか。

私は(例によって)長い間、そのお店を見つけることができませんでした。
三条寺町の界隈を通りかかった折に、「今日こそ見つかるかな」と曖昧な情報を辿って
通りの両脇の建物を見回しながら、何度も付近を歩いては、その度に諦めたものでした。

名前だけは知っていました。
『アスタルテ書房』

三条寺町界隈にあるということも知ってましたが、何度探しても
お店の看板すら、見つけることができず、いつしか私は半ば諦めたような気持に
なっていたのを思い出します。

窓のない密閉された一室の、壁はすべて天井までの本棚で埋められて
部屋の中、そこここに美意識に裏打ちされたものが配置され
静けさの満ちる店内に、息を潜めてお邪魔させていただく
そんな日は、突然に訪れたのでした。



「御幸町でジュエリーハイツというマンションを探すといいよ」
友人から聞いた言葉を頼りに歩くと、ジュエリーハイツはあっさりと見つけることができました。

マンション入り口の集合ポストにも、店の名前は記されていません。
「これじゃ、どんなに見渡しても見つかるわけないよね」と苦笑して
私は、幾度も前を通り過ぎたことのあるマンションの階段を
見ず知らずの人の暮らす場所に勝手に足を踏み入れる時の罪悪感で一段ずつ登りました。

二階に上がると一室の扉が、薄く開かれ、
薄暗い気配の中から暖色の明かりがこぼれているのが見えました。

ドアノブに手を伸ばす前に、ひとつ深く息を吐きます。
「澁澤龍彦が愛した店」
「美しいもの・退廃的なものを集めた秘密主義な店」
「古書や絵画、映画や思想など耽美的なものを扱う」
それまでに耳にした情報が、ふと脳裏を過ぎてゆくのを感じました。



上り口で靴を脱ぎ、置かれたスリッパを借りて、店内に入ると
しん、と冷たさが感じられたような気がしました。

誰かの古い書斎を訪れているような。
呼吸の音すらうるさく思える静謐さで、私は息を潜めて店内を見回して、少女の横顔に目が留まりました。

a0223987_1333840.jpg















米倉斉加年によって描かれた少女の横顔の銅版画。
嘆くような悲痛さの少女の横顔は、白と黒の画面の中に永遠のイメージとして焼き付けられていて
私はその絵に、それまでの緊張も忘れて、吸い込まれるように見入りました。

価格は12,000円程度だったと思います。
財布の中にあるお金で足りる、と思った瞬間に、迷いなど一切なく、私はこの絵を購うことを決めました。

その日は暗く冷たい雨の降る日で、冷静に考えると、絵を買うなら晴れた日に出直したほうが
持ち帰るに適していると思うのですが
私はその絵を、その日に、持ち帰らなければいけないと、強く思ったのを覚えています。
「今日を逃すと、二度とこの少女の横顔を、見ることができない気がする」
そうなると後悔に耐え切れないことがはっきりと分かるだけに
雨の降る中でも、この絵を買って、持って帰らなければいけないのだと思ったのだと思います。

雨よけを施してもらい、私は絵を自転車の前かごに入れて、いつもより注意深く
小雨の降る夕暮れの街中を走りました。
その日に訪れたお店のこと。
その場所での奇跡のような一枚の絵との出会いのこと。
きっと一生大切に、憧れ続けるだろう一枚の絵を、幸運にも手にすることができたこと。
そんな出来事が嬉しくて、「今日のこと」を忘れてしまいたくなくて、私は高揚する気持ちを抑えるため
当時、河原町三条北の教会脇にあったエリゼという喫茶店に寄ることにしました。

その日のことは、今でも、つい先日の出来事のように思い出すことができます。
雨の降る京都の街の匂い。
息を潜めた時の肌にしみる静けさ。
転倒しないよう絵を守りながら注意深く自転車を走らせた夕方。
エリゼで飲んだ紅茶の味。

あの時、私が何歳で、どんな暮らしをしていたか。
そんなことは全て曖昧でおぼろげなのに、あの日の記憶は瞼に浮かぶほどに鮮明です。
きっと人生のうち、こんな風に憶えている日が幾日かはあるのでしょう。
そういう日を記憶として積み重ねて、私は大人になるのかもしれません。

アスタルテ書房
[PR]
by pinngercyee | 2011-08-13 02:11 | 京都